盲目の社会福祉活動家、ヘレン・ケラー。
聴力、言葉、視力を失った彼女がサリヴァン先生に救われたのは誰もが知る話だ。
彼女が心から尊敬し、学問を収得する際の手本とした人物が日本にいたことをあなたは知っていますか。
盲目でありながら学問の道を志し、日本最大の国書の叢書『群書類従』を編纂した塙保己一(はなわ・ほきいち)の成し遂げた偉業をぜひとも知って欲しい。
昭和12(1937)年4月26日、見えず聞こえず話せずの「三重苦の聖女」と呼ばれたアメリカのヘレン・ケラーが、東京渋谷にある温故学会のビルを訪れた。
彼女はここに保管されている盲目の国学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)の鋳像や愛用の机に手を触れながら、幼いころ母親に日本の塙保己一の偉業と不屈の精神を教わり、自分も発奮したとして、次のように語ったという。
「塙先生こそ私の生涯に光明を与えてくださった大偉人です。本日、先生の御像に触れることができましたのは、日本における最も有意義なことと思います。手垢のしみたお机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには心から尊敬の念を覚えました。先生のお名前は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう」
塙保己一は延享3(1746)年に武蔵国保木野村(埼玉県児玉町)に生まれ、幼くして病により失明したが、江戸に出て学問に打ち込み、41歳から30年以上をかけて日本の古書古本を1,273点収録した『群書類従』を編纂した。
あらゆるジャンルの文献が収められた「群書類従」なくして、日本文化の歴史を解明することは不可能だ、とまで言われている。
ヘレン・ケラーの母親は、盲目の娘を嘆くこともなく、
全身全霊で人のために尽くして偉業を成し遂げた「塙保己一」の話をいつも語って聴かせていたそうだ。
彼女は、昭和12年(1937年)に初来日した際、渋谷の温故学会を訪れ、母親から『日本の塙保己一先生はあなたの人生の目標となる方ですよ。』と教えられたことに触れ、こう話している。
『今日、こうして温故学会を訪問して先生の像に触れることができましたのは、日本の訪問の中で最も意義深いものでした。
使い古された質素な机と、優しそうに首をかしげた先生の像に触っていると、先生のお人柄が伝わってきて、心から尊敬の気持ちがいっそう強くなりました。
先生のお名前は、水が流れるように、永遠に後世に伝えられていくに違いありません。』
これは、どんな困難な状況の中でも輝いて生きたヘレン・ケラーが、幼くして失明したにもかかわらず努力して偉大な学者になった塙保己一を心の支えに、勇気と希望をもって生きた証と言える。
では、「塙保己一」の苦難の歩みをざっと覗いてみよう。
当時は江戸幕府の保護のもとで、盲人だけの鍼(はり)、三味線、金貸しなどの職業組合があり、厳格な徒弟制度が敷かれていた。保己一(こう名乗ったのは後のことであるが)は15歳にして江戸に出て、検校(けんぎょう)という位についている雨宮須賀一(すがいち)のもとに弟子入りした。しかしや鍼の修行には身が入らずになかなか上達もしない。このまま雨宮に迷惑をかけるだけでは死んだ方がましだと、ある日、九段坂の近くの牛ヶ渕に身を投げようとした所をあやうく家の下男に救われたという。
連れ戻された保己一を雨宮は激しく叱責した後に、こう聞いた。
「お前は何かほかのことに気がいっているのではないか。申してみよ。お前が国元を出て江戸に来たのはなにかしら強い望みがあってのことだったろう」
師匠のこの言葉に、保己一は泣きじゃくりながら、本当の望みを口に出した。
「お師匠さま。私は学問がしたいのです。そのことばかり考えてほかのことに身を入れることが出来ませんでした。どうか、お許しくださいませ」
そういう保己一の中に何かすごい力がこもっている事を、雨宮は感じ取った。
「そうか、そうか。よく分かった。お前の頭のよいことはよく分かっておった。実技のほどはからきし駄目だというのに、医学書は一度聞いたら一字一句覚えてしまうお前には、実のところ驚かされたよ」
盲人でも学問をして歌人や学者になったものが今までにいなかったわけではない。
こうして雨宮須賀一によって、学者としての「塙保己一」の苦闘が始まるのである。