榎美佐子代表「中ピ連」という女性が目覚めた時代 | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

米国発「ウーマンリブ運動」が日本に上陸する。

目覚める女性たちは、「元祖女性は太陽であった」とばかり人権としての女性を強烈に訴え始めたのである。

代表をつとめるのはウーマンリブ運動家「榎美佐子」女史であった。

榎美佐子は徳島県の出身。京都大学薬学部を卒業している。在学中に薬学部の同級生と学生結婚した。1967年、日本テレビアナウンサー村上節子(のち田原総一朗夫人)・朝日新聞記者松井やよりらマスコミ関係者によるウーマン・リブ団体「ウルフの会」の結成に参加し活動を開始した。

 

1972年6月14日、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」(略称:中ピ連)を結成し代表となる。高田馬場に本部事務所を構え、ピンク色のヘルメットをかぶっての街頭宣伝・デモ活動を行う。不倫している男性の下に集団で押しかけて吊るし上げる戦闘的な運動スタイルや、マスメディアへの積極的な露出で注目を集めていた。

ただし、当時の経口避妊薬は副作用が大きく、それ自体が女性の体に悪影響を与え、かつ性病の蔓延を助長するという理由からあまり用いられなくなったという。このためか、運動は下火になり、1975年に中ピ連は解散した。

 

1977年、第11回参議院議員通常選挙に際し、中ピ連を母体として日本女性党を結成し国政進出を図るも失敗する。開票日からわずか2日後の同年7月12日、同党は解散。榎美沙子は派手な衣服を身にまとい独特の選挙運動を行ったが、自身は選挙に立候補せず、「代表者が国民の審判を受けないのはおかしい」と選挙期間中からその態度に疑問の声が上がったという。

 

とりわけこの選挙に立候補し落選した俵萌子(東京都選挙区から革新自由連合公認で立候補し落選)や吉武輝子(全国区に無所属で立候補し落選)ら別の女性解放運動家からは「なぜあなたは国民の審判を受けなかったのか」「あなたのせいで日本の女性解放運動は大きな誤解を受けた。嘲笑の的になった」「男性を排除しようというあなた方の主張は間違っている、と非難している。

 

城戸嘉世子ら日本女性党の同志の信望も失い、党は瓦解する。以後活動もできなくなった。

こうして、前代未聞の日本版ウーマン・リブ運動は跡形もなく消え失せた。

 

もし、多目的トイレ不倫の渡部建がこの時代に生きていれば、真っ先に彼は、首を絞められると思う。

ヘンな時代があったものだ。