100円ショップ「ダイソー」成功の秘訣を訊かれた創業者の「矢野博丈」
彼は云った。「自分には、能力も運もないことに気が付いたんです、そのおかげでやってこれた」
ダイソーはデフレ時代の王様と言われている。
物価が上がり続けるこのご時世で、お財布の中身を気にせず100円で買い物を楽しめる。
ダイソーの店舗数は3000店舗を超え、売上高も3000億円を越えている。
最近では、海外にも進出し同じく成功を収めている。
ところが、「矢野博丈」の半生は安楽なものではなかった。むしろ苦難の連続であった。
1943年、矢野博丈は広島県で生まれた。中央大学在学中に学生結婚する。卒業後は、妻の実家のフグ・ハマチ養殖の事業を継いだ。しかし、事業に失敗し多額の負債を作ってしまった。やむなくトラックで夜逃げしたのだ。
以後は、バイトに明け暮れしてなんとか生活したのだ。百科事典のセールスから始まって、チリ紙交換やボーリング場の管理などを経験した。流行りの商売も長く続けられず、転職を繰り返したという。
1972年に矢野博丈は、自分の手でビジネスを始めた。彼は、30歳になっていた。仕入れた雑貨をトラックに載せて移動販売を始めたのである。価格は100円均一にした。矢野博丈は、「計算が面倒だったから」と、事も無げに答えている。だから商品によっては、コスト割れすることもあったという。
近所の境内を借りて商品を並べたこともある。ようやく評判になり、リピーターも増えてきたころ、思わぬ事件に巻き込まれてしまう。倉庫の放火事件だった。矢野博丈は、失意に沈んだが、泣いてばかりはいられなかった。
彼は、被害を免れた商品をかき集め、懇意にしていたスーパーにダメ元で頼み込んだという。
もう彼は、捨て身であった。おそらく、彼の全身からは火の玉がオーラのように立ち込めて居たことだろう。
スーパーは当時でも大手であったが、店舗の一角を貸してくれることになる。「ダイソー」常設の1号店であった。
評判が評判を呼び、100円ショップダイソーは、やっとビジネスとして軌道に乗った。矢野博丈は、40歳になっていた。だが、社員たちの裏切りに遭う。独立して別会社を立ち上げるという。
その造反社員が立ち上げたのは100円ショップ「セリア」だそうな。
矢野博丈は、社員造反の動きが顕在化してから褐色の小便が出続けたそうだ。
努力失くして成功はない。血が混ざる小便を出して初めて成功者となれるのだろう。