住友銀行の天皇と怖れられた磯田一郎 | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

磯田一郎氏は住友銀行(現三井住友銀行)の頭取・会長を務め〝天皇〟と呼ばれた時期もあった。

また、〝天皇〟までの栄光と、それに続く没落をも併せ持つ、日本では類いまれな数奇な運命をたどったバンカーでもあった。

 

1976年、暮れも押し詰まったある夜。東京・帝国ホテルのスイートルーム、室内にいるのは磯田一郎住友銀行副頭取(当時)だ。部屋から電話の声が聞こえてくる。相手はわからない。「瀬島がウンと言わないんだ」とは聞こえたが、後は聞き取れない。細かい数字の話をしているようだった。

 

瀬島とは瀬島龍三伊藤忠商事副社長である。磯田氏と瀬島氏とはこの時、伊藤忠商事が関西の中堅商社、安宅産業を合併するかどうかで激しいつばぜり合いを繰り広げていたのだ。

 

住友銀行をメインバンクとする安宅産業はカナダでの精油事業が73年の石油危機で破綻、その膨大な負債が安宅産業本体を倒産へと追いつめていたのである。

 

その金融的な影響はメインバンクだけでなく、他の大手銀行にも及ぶ「昭和金融恐慌」の恐れがあるとして、大蔵省(現財務省)も動き出していた。

 

こうした中、磯田天皇は76年1月12日、安宅産業が伊藤忠商事と合併含みで業務提携に入ることを公表、同10月12日には合併案を提示した。だが、伊藤忠商事は乗る気ではなかった。

 

最大の争点は合併後に巨額の債務が見つかった場合の対応だった。伊藤忠商事の経営陣は瀬島氏を中心に合併反対が根強かった。交渉決裂かと思われたが、同12月21日、磯田氏は瀬島氏との会談で合併後債務は銀行団で補填すると表明、事態は一気に動いた。

 

この当時、磯田天皇は自信に満ち、銀行団としての考えを明解に話していたという。わしに任せておけばよいという雰囲気が立ち上っていたという。

 

こうして、磯田天皇は安宅産業の破綻処理を〝勲章〟に1977年6月頭取に就任、住友銀行は磯田〝天皇〟のもと快進撃を続けた。日本は1985年プラザ合意を機にバブルへと一気に進む。

 

業績拡大に執念を燃やす磯田天皇は、会長として1986年、不良債権の塊とさえいわれた平和相互銀行の合併に踏み切る。この時から住友銀行と日本の裏社会との関係が始まったとされる。日本の金融機関はタガが外れたように、株や土地投機にさえ資金を提供していた。磯田天皇をはじめオイタをするバブル紳士が新聞記事にならない日はなかった。

 

そして1990年10月5日、住友銀行大塚支店長が出資法違反で警察に逮捕されると、2日後、磯田天皇は突然、会長辞任を表明した。住友銀行系の商社イトマンの経営陣に入り込んだ裏社会の人物と、磯田氏の家族とのスキャンダルもささやかれていた。

 

会長辞任から3年後、磯田天皇はこの世を去る。そしてバブルは崩壊へと向かっていく。

あの頃は楽しかったなあ--