中島飛行機創業者--中島知久平の壮挙 | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

願望実現のためには、明確な「目標」が重要だ

戦闘機「隼」を作った男、中島知久平。

1900年(明治33年)17歳になったばかりの少年が、誰にも相談せず、大きな願望を抱いた。その願望は、具体的な最終期限を持ったものであった。

やがて、その少年は黙って親の家を出た。目標を紙に書いて、朝晩確認を続けるために声に出して読んだという。

 

少年は、長年の努力が実って、「中島飛行機」を創業する。彼の名を覚えて欲しい。中島知久平である。

中島知久平は、群馬県の豪農に生まれた。父は町長まで務めた人であったが、「百姓には学問は要らん」といい、知久平は旧制・中学校への進学を

認めてもらえなかった。だが、この少年には壮大な夢があった。「陸軍将校になって、大陸で活躍したい」と少年は考えていた。

 

知久平はどうすれば願いが叶えられるか、真剣に考えた。具体的な行動目標を書き上げたのだ。

父親の農業を手伝いながら、まず陸軍士官学校にはどうすれば入学できるのかを考えた。だが、小学校を出ただけの知久平には、入学資格はなかった。

しかし、ある日少年雑誌を読んでいた時、中学校卒業資格検定試験に合格すれば、士官学校の受験資格が得られることを知った。

 

それから、彼は、不可能を可能にする計画を立てるのだ。まず上京だ、期限は2年、19歳で陸軍士官学校に入る。27歳で陸軍の大尉に昇進する。

東京に遊学するための予算を立てた。今の貯金ではとてもお金が足りない。彼は一計を案じる。春になれば、藍玉の販売代金が中島家に入る。

そのお金は、父親が一生桝に入れて神棚に供えていた。知久平は仮病を装って手伝いを休むと置手紙をしたためた。藍玉の代金は300円も貯まっていた。

 

やがて、家出を決行する。神田に下宿を借りた。それから徹底した苦学を開始する。手持ちのお金で陸士合格まで耐え忍ぶつもりであった。

勉学3方針を策定した。1.昼間は研数学館で6ヶ月数学を学ぶ。2.夜間は正則英語学校で1年間英語を学ぶ。3.その間は、中学の教科書を全部独習する。

そして、上京して2年4ヶ月後に卒業資格検定試験に合格した。知久平は陸士に願書を提出した。ところがその願書に不備があり、学校から群馬県に連絡が届いたのだ。

 

父親は知久平の住所を知って上京してきた。父親は、無断で藍玉の代金を持ち出したことには、一切触れなかった。そして陸軍士官学校受験には手放しで誉めてくれた。

そして、長年農業に打ち込んでいた父親は、「軍人になるのなら、陸軍よりは、これからは海軍だ」と知久平にアドバイスした。

それだけの見識を備えていたのだろう。

 

1903年(明治36年)12月、知久平は、難関だった海軍大学に見事に合格した。合格者は40名、そのうち21番目の合格であった。

やがて、ライト兄弟が、ガソリンエンジンを搭載した複葉機の初飛行に成功したというニュースが世界を駆け巡ったのだ。

知久平は、海軍大学で機関科を専攻していた。彼が、飛行機の研究を始めたのはいうまでもない。欧米の専門誌を取り寄せた。

 

1910年(明治3年)知久平は海軍中尉として、駆逐艦生駒に乗艦した。約2ヶ月のフランス視察であった。知久平は上官を説得して特別上陸許可を取り、飛行機関連施設を見学して回った。

フランスには、航空機産業が生まれて間がない頃であった。知久平は、海軍上層部に、日本でも航空機産業を育成することが急務であることを進言した。

それから、4年後の1914年に欧州において世界大戦が勃発する。航空機(当時は複葉機)が戦争の主役に躍り出ていた。

 

その後海軍を退官した知久平は、軍部の応援を得て、我が国最初の飛行機生産に挑戦していくのだ。

ここに、群馬で夢見た少年の夢は、見事に結実する。