労働者の悲哀「山谷ブルース」
---命がけの映画撮影を知る
日雇労働者の街"山谷"の労働者を、日の丸の下で一元的に支配・管理しようとする右翼暴力団の試みが存在した。
「山谷越冬闘争を支援する有志の会」に所属してい た佐藤満夫監督は、1984年12月に文字通り山谷のど真中にカメラを据えて、山谷労働者の姿を正面から撮影するドキュメンタリー映画制作の作業に取りかかる。
ところが、映画がクランクインしてまだ1か月もたたない1984年12月22日早朝、佐藤満夫監督は、日本国粋会金町一家西戸組組員の凶刃に斃 れてしまうのだ。理由は、カメラに暴力団員が期せずして映り込んだためと云われる。
冒頭の字幕に続いて、映画に登場するのが、山谷の路上に倒れた、微かにまだ息のある襲われた佐藤満夫監督自身の姿であった。
佐藤満夫監督による撮影されたフィルムがかろうじて残されていた。
翌年『佐藤満夫監督虐殺弾劾! 右翼テロ一掃! 山谷と全国を結ぶ人民葬』が1985年2月3日に行われた。
涙にくれ葬儀に参集した人々は、この映画を完成することを心に固く誓い合った。
「カメラは常に民衆の前で解体されていく-これが本当のドキュメントだと思う」とは、山岡強一監督の言葉だ。
山岡強一 監督は、山谷で始まって山谷で終わる強固な円環を打ち破る中味は何かという問いかけを上映運動に託し、
この試みは現在なお継続している。
バブル経済を体験した皆さんには、とうてい理解し難い現実だろうと思う。
だが、日雇い労働者が暮らす「山谷」は存在したのだ。なお、現在では「山谷」という地名はない。
フォークソングの原点となった山谷ブルース。
もはや、日本は豊かな国ではなくなりつつある。