萩本欣一をご存知だろうか。
昭和・平成を愛と笑いで駆け抜けた当世随一のコメディアンである。
彼は、「コント55号」で一世を風靡した。
さらに、司会を務める番組から多数の人気タレントを輩出している。
まるで島田紳助の先駆者でもある。
欽ちゃんと呼ばれて久しいのだが、彼は芸人になりたくて当時浅草にあった「東洋劇場」に入門した。
そして3ヶ月が空しく過ぎて行った。彼には、「あがり症」という欠点があった。
そのためか、舞台に上がってセリフを忘れてしまうこともしばしばだった。
考えてみれば、お芝居は出来ない、歌はへたくそ、踊りなんかとんでもない最低のありさまだった。
当然だが、劇団の演出家に、匙を投げられたのだ。
『萩本くん、あのなァ、もう3ヶ月もたつのだろう?』
『そ、そうです』
『おまえは珍しいよ、それらしい気配が漂ってこないもんなァ』
『はあ、どうもすみませんです』
『芸人に向いていないんだよ、辞めるんなら早い方がいいよ』
だが、あろうことか当時の師匠は、欽ちゃんを辞めさせなかったのだ。
師匠は、匙を投げた演出家を口説いてくれた。
『確かに、あいつには才能がない。だけどな、あいつのように気持ちのいい返事をするやつはいない、クビにしないでくれ、頼む。』
欽ちゃんは、そのとき辞める決意をすでに固めていた。
だが、演出家は師匠の言葉を伝えるのだ。
さらに--『萩本を助けたい、応援したいと師匠が云ってくれたんだ。だから、お前は一人前になれる!一人でも応援してくれるひとがいたら、辞めてはいけない。生涯辞めるんじゃない』
それを聞いては、欽ちゃんは心から泣いたという。
『どんなに苦しくても、オレは辞めない。有名になって師匠に恩返しをするまで』
萩本欽一
。。。人生の中で一番泣いた日。。。