前編からのつづきです。

 

 

なんで、こんな話をしたか、というと、

固定されていると決めつけている要素が、

必ずしも固定されているわけではない、という発想を持つことで、

新しい発見が生まれるからです。

 

アインシュタインの相対性理論は、

この世でいちばん速い速さは光の速さであって、

それを超えることはできない、という仮説から導き出したものです。

その仮説が本当だった場合、どうなるのか?と、

真剣に考えてみた結果です。

 

何が変数で、何が固定された数なのか。

その既成概念を捨ててみること。

 

この発想は、日常の中でも役立ちます。

 

前述のテレビドラマ「あなたの番です」の予告編。

「私がやりました」というシーンをみて、

「あ、この人が犯人なんだ」と信じて、そこで考えるのをやめる。

 

それは、劇中のセリフの意味をそのまま固定されたものとして、

受け止めたということです。

「鵜呑みにしている」という言い方ができます。

 

一方で、「予告編で言うってことは、この人は犯人ではないってことか。

それなら、本当の犯人は一体誰なんだ?」と思考を巡らせる。

 

それは、少なくともこの人は犯人ではない、ということだけを固定しますから、
他の可能性がまだまだある、ということです。

 

 

同じことは、ときどき現実世界にも起こります。

 

そのひとつが、2018年に話題になった

日大アメフト部の、悪質タックル問題とされる件です。

 

世の中では、監督やコーチが反則指示を出した、という世論で溢れ返りました。

 

その根拠のひとつが、試合の後の取材で、

チームの監督さんが「私がやれと言った、と書いていい」と

記者たちに語ったことが挙げられました。

 

その情報を知ったメディアは、まるで鬼の首を取ったかのように

嬉々としてそのことを報道しました。

 

「やっぱり監督が指示したんだ!だって本人がそう言ってる!」と。

 

でも、普通に考えたら、本当に指示した人ならそんなこと言いませんよね。

この発言内容が本当だったら、こんなに簡単な推理ドラマはありません。

 

つまり、この発言こそが、指示していない証拠だと、読み取れるかどうか。

そこが発想の分かれ道です。

 

では、なぜ監督は「自分が指示した」などと言ったのか?

 

その後、監督は反則指示はしていない、と言ったのに、

選手は監督からの指示でやったと証言しているのは、なぜなのか?

 

結論を急がず、そう思考を深めていけば、物事の深層に近づきやすくなります。

 

 

あの件の場合、先に記者会見をした選手の衝撃が大きく、

その時点で世論は選手が真実を語っていると思いこみました。

 

真実は唯一無二であって、ひとつしかありません。

 

そうなると、後から会見し、

その場で「反則指示はしていない」と語った監督、コーチは、

嘘をついている、ということになります。

 

そしてまた、この選手と監督、コーチの関係性は、

対立したものである、という前提になりますよね。

 

そう考えたから、メディアと世論が選手の側に立って猛烈に過熱しました。

 

「ウソ言うな!はやく白状しろ!」

「なぜ学生を守らない?」

「指示したと言え!でなければ認めないぞ!」と。

 

しかし、そのとき、何が変数なのかを

しっかり考えてみた人はどれくらいいるでしょうか?

 

少なくとも、一人いました。

それが警察です。

 

世間が固定されていると考えた数字。

それは、真実はひとつしかない、ということです。

 

しかし、警察は「必ずしも真実はひとつではない」と考えたわけですね。

 

選手は真実を語った。

そして、監督コーチもまた、真実を語ったのだと。

 

両方が真実だとすると、

つまり真実が2つある、という状況だと、

いったい何が変数となるのか、再定義しなくてはなりません。

 

速さを固定すると、空間や時間という、絶対だと思っていたものが、歪むように。

歪まない前提だったものを、歪むと思ってみる。

今回の場合、歪むのはなんなのか?

 

それは、「潰してこい」という言葉の「意味」でした。

 

監督、コーチが伝えたことが、そのままではなく歪んで選手に伝わった。

 

激しくタックルしてこい、という意味だったコーチの言葉を、

選手は本当に潰してこいという指示だと思い込んだ。

 

え?そんなことあるか?

 

あります。

 

むしろ、勘違いやディスコミュニケーションは、

人間社会の中では日常茶飯事です。

夫婦、親子、恋人同士、友達、会社の上下、

あらゆる関係の中で、

「こう言ったつもり」と、

「こう言われたと思った」のトラブルは毎日起きています。

 

そんな経験は、誰にでもある。

 

けれども、そこに「勘違い」が発生していた、

ということが判明するのは、なんらかの事象が現実に起きたときです。

 

「牛乳2本買ってきて」を

「牛乳3本買ってきて」と聞き間違えたことは、

実際に3本買ってきてしまったときに判明します。

 

だからあのタックルは起き、

起きたことによって、そこに起きていた「勘違い」が判明した。

 

そういうことです。

 

となると、その勘違いはなぜ起きたのか?が重要となります。

 

勘違いは、「別のことを考えていた」とか、「余裕がなかった」とか、

状況によって引き起こされることが多いですから。

 

反則指示をしてないのに、

反則してこいと言われたと勘違いした、その理由はなんなのか?

 

つまり、日大タックル問題の本質は、

監督やコーチの言っている意味が、選手にちゃんと伝わらなかった問題なのです。

 

となると、再発防止策は、そこを解決するものであるべきなのですよね。

 

 

もうひとつの謎。

なぜ試合後、監督は「私がやれと言ったと書いていい」と言ったのか。

 

ここも、固定観念を外してみればいいのです。

 

その固定観念は「選手と監督は対立している」というものです。

そもそも、監督、コーチは、

この選手に期待を寄せていたからこそ、プレッシャーをかけた。

 

そもそも勝利を目指すチームにとって、選手は大切な財産であり、

監督がその選手を憎く思ったりするはずがないのです。

 

選手と監督は対立していなかった、と考えれば、試合後の監督の発言は、

反則をして退場になってしまった自軍の選手を

擁護するための発言だったとわかるのです。

 

監督やコーチは、実は記者会見でも、選手が悪いとは、一度も言っていない。

 

あんなことをやれと指示はしていないが、

指示したと誤解釈させてしまった原因は自分たちの指導法にあったと認めて、

すぐに辞任しました。

 

けれど、熱くなったメディアと世論は、彼らのその行動が、

まったく頭に入ってこなかったんですよね。

 

思い込みとは、恐ろしいものなのです。

 

また、ここからもうひとつわかることは、

監督は試合直後、いったいどんな反則タックルが起きていたのか、

その段階では把握していなかった、ということです。

 

それを後からビデオで確認した。

だから試合直後は「私の指示だ」といい、その後、その言葉を撤回したわけです。

それは、「あんなことが起きていたとは知らなかった」ということの

裏付けでもあるわけです。

 

「監督は、反則を見ていたはずだ!」と決めつける気持ちさえ捨てられれば、

そこには、一切の論理の破綻はないのです。

 

 

パッと見たときに受け止められる情報は、

実はとても少ないものです。

 

だから、その瞬間に感じたものが本当に正しいかどうかは、

もう少し検証してみないとわからないことが多い。

 

日大アメフトの問題では、警察がそのことに気づいて、しっかり検証しました。

 

それによって、「反則指示はなかった」という主旨の捜査結果とともに検察に送検され、

検察は嫌疑不十分として立件しませんでした。

 

検察が警察の嫌疑なしを、嫌疑不十分にしたのは、

「やったにちがいない!」と思って訴えているクライアントに対しての、

言葉の上での配慮だったのだと思います。

 

なにせ、捜査機関である警察が、「嫌疑なし(完全シロ)」と言ってるのですから。 

 

 

この件について、世の中には、

指示をしたはずだ、と信じる人(信じたい人)がまだまだいます。

 

けれど、刑事告訴が起きた場合、警察は告訴した側に立って捜査します。

 

つまり、罪があったのではないか?という視点で捜査する。

弁護士じゃないのですから、当たり前ですよね。

 

それなのに、警察が捜査の結果、「嫌疑なし」としたのには、

どう考えても、あの反則行為をやってこいという命令はなかった、

という結論に達したからです。

 

「じゃ、なぜ起きたんだ!」

という人はそれでもいますが、

そういう人は、「命令もなしに、あんなことが起きるはずない」という

思い込みに支配されているのです。

 

 

では、なぜ指示してないのに、指示されたと思い込んだのか?

 

そこもまた本質です。

 

勘違いが起きた原因ですね。

それは、追い込み的な指導方法が当該選手にはフィットしなかったためです。

 

追い込み指導が効果を発揮する選手だっていますから、

その指導法が絶対的に悪かったのではなく、

当該選手にはマッチしていないことに気づかず、

他のアプローチに変えなかった、ということがいけないのですね。

 

ですから、今後、コーチたちは、様々なコーチングの引き出しを準備して、

その選手、その選手にマッチした指導法を持たなければいけない。

 

それが、コーチの伝えたいことが、

選手にちゃんと伝わるようにするための方策でもあるわけです。

 

 

高いレベルを目指すスポーツの現場では、かなり厳しいことが要求されます。

 

そんなの、当たり前ですよね。

 

ただ、厳しさにも、さまざまな種類がある、ということですね。

 

ともかく、私たちが、できるだけ真実に近い考えを持つには、

メディアなどから与えられた限られた情報から

反射神経的に感じたことを鵜呑みにしないことが大切です。

 

人は思い込みやすい生き物なのだ、と理解すること。

 

思い込みを捨てて発想を変えたら、

急に視界がクリアになるときがあります。

すべてがパッとクリアに見えたとき、

自分が、いわれのない人を罪人扱いしていたことに気づいたなら、

そのことをすぐにやめるべきだと、私は思います。