一家で、小さな宴会を催した。
 宴会と言っても、いつもの食事より少し贅沢なものを、いつもより少しだけ多く食べるだけのものだ。それでも、子供たちははしゃいでいた。幸村も、妻の酌で、酒を飲んだ。
 最後の夕餉である。
 幸村は、これを家族に打ち明けずにいた。しかし、妻だけは、それを悟っているのだろう。この食事が、一家の最後の時になる。妻の酌は、幸村の一つ一つの動作をいとおしむように、ゆっくりと、繊細な動きをしていた。幸村は、優しく声を掛けることでしか応えられなかった。
 この時間が、永久に続けばいい。
 幸村は、心の底から願った。何を犠牲にしても、構わなかった。
 それでも、その時は訪れた。
「父上、もう、料理が無くなってしまいましたよ」
 お梅が言った。その声は、いくらか沈んでいた。眼は、悲しそうに、両親を見つめている。
 お梅は、気付いていたのかもしれない。いや、二人のようすを注意深く見ていれれば、あるいは誰でも気付くことが出来たのかも知れない。
 妻に良く似た、まっすぐな、澄み切った瞳。
 幸村は、意を決した。猪口を置き、家族を見回した。
 子供たちは、皆、自分に似ていた。当たり前だ。自分の子なのだから。
「皆、よく聞いてほしい」
 妻を除いた一同が、一斉に幸村を見た。眼も、似ている。
まっすぐな瞳に抗うために、諭すような口調で、幸村は続けた。
「これで、お別れだ」
 おわかれ、とお梅が復唱した。
「父上?」
 わかってくれ、とは言わなかった。子供たちは、分かっているのだろう。明日起こるであろうことも、幸村の身に、何が起こるのかも。
「父は、行く。最後の戦いだ」
 はっきりとした声で、言った。
「お前たちには、生きてほしい。生きて、真田の歴史の、紡ぎ人となってほしい」
 本当に言いたいことは、言えなかった。
 皆、何も言わなかった。涙を流している。幸村だけが、瞳に真直ぐな光を湛えていた。
「お前たちには、辛い思いをさせた。だからこれからは」
「辛い思いが、何でありましょう」
 妻が、叫ぶように言った。眼が赤くはれ上がっている。やめてくれ。そんな眼で、見ないでくれ。
「私たちは、辛くなどありませんでした。あなたがいたから、家族がいたから、私たちは乗り越えてこれたのです。あなた様がいなくなるほうが、辛いということが、なぜわかってくださらぬのです?」
 後悔は、しないと決めた。誓った。父に、自分に、誓った。それが、自分の柱となっていたはずだった。しかし、本当は、この家族こそが、柱だったのではないのか。
「戦で御座いますか。命の奪い合いの方が、家族よりも、大事なので御座いますか」
 ほとんど、声になっていなかった。息を切らしながらも、妻は言葉を浴びせ続けている。
「家族よりも」
 幸村は、静かに言った。妻の顔が強張る。
「大事なものなどない」
「ならばなぜ」
「しかし、守らなければならないのだ」
 決然と、言い放った。妻の眼が、わずかに穏やかになった。
「俺は、男として、君主を守らねばならぬ。父として、家族を守らねばならぬ。武士として、誇りを守らねばならぬ」
 ほとんど、無意識だった。考えて、言葉を発していない。自然とわき出るように、言葉が浮かんでくる。
「だから、俺は行く。眼の前にあるのが、死への道だろうと、六文銭に誓ったのだ。戦う。俺は、今まで刹那たりともお前たちを忘れたことはなかった。矢弾の降る戦場であろうと、隣で仲間が斃れようと、またお前たちの笑顔を見るために、帰って来た」
 頬に、暖かいものが流れていた。
「お前たちを、愛している」
 お梅が、声を上げて泣いた。それに続いて、嗚咽が次々に聞こえて来た。
 愛している。本当に、言いたかった事だ。
「後のことは、佐助にすべて任せてある」
 妻の方へ向き直り、幸村は言った。
「子供たちを、頼んだ」
 妻が、大きく頷いた。幸村は、妻に笑顔を向けると、全員を見回した。

 ありがとう。
 声には、出さなかった。


 大阪への帰陣は、陽が沈むのと同時だった。
 秀頼から労いの言葉を賜った後、幸村は一人、酒を持ち出していた。送り酒、とはよく言ったものだった。なぜ、あの男は、最初の酒を断ったのだろう。ふと、考えた。
どこか、暗い影のようなものがあったのを、幸村は記憶していた。もしかすると、あの時から、すでに内通の兆しはあったのかもしれない。
 友に、杯を捧げた。一息で、飲み干す。少しも、酔いは感じなかった。
「旦那」
 久しぶりに、声を聞いた。
「どうした、佐助よ」
 幸村は、静かな声で言った。心の底に、黒く大きなものが、うずいている。
「本当に、申し訳ないです」
 佐助。額を、床に擦りつけている。
「俺の、誤った情報のせいで」
「もう、良いのだ」
 佐助の肩が、小さく震えている。
「死は、天命だ。あいつの命も、天命だったのだ」
 佐助の、嗚咽が聞こえる。
「あいつの死は、あいつ自身が望んだことなのだと思う。あいつは、逃げることが出来た。俺の到着を待たずとも、戦わずとも、よかったんだ」
 眼を閉じた。後藤の姿が、鮮明に浮かび上がってくる。
 嗚咽が、暗い部屋に響いていた。
「泣くな、佐助」
 後藤の姿が、消えなかった。
「旦那の、ほうこそ」

 嗚咽だけが、静かに響いていた。



 負けたようだ。
 戦の趨勢が、伝聞でしかないのが、悔しかった。
 また、人が死んだのだ。自分のために、血が流れたのだ。
 自分の仕事は、楽だと思った。命懸けで戦ってきた兵士たちに、労いの言葉をかける。これだけでいい。苦労であった。これだけで、多くの兵は涙する。生まれながらにして、父親の跡を継ぐことが決まっていた自分には、武士の気概がわからない。なぜ、私ごときのために戦えるのだ。私ごときのために、なぜ、死ねる。ただ、大阪の一番高い所から血が流れるのを見ているだけの人間だ。兵に、従者に、母に守られているだけなのだ。歯痒かった。なぜ、私は座っていることしか出来ない。私の太刀は、槍は、具足は、どこにあるのだ。ずっと、自問を繰り返していた。
 秀頼は、一人になると、涙を流していた。人前で泣くことは、出来ない。父に、そう教えられたからだ。将たるものはそういうものであると、家臣に弱さを見せてはならないと。父の教えだけは、愚直なまでに貫き通していた。将は、超然としているのが美しい。自分がそう出来なかったのだと、父は言った。憧れだったのだろう。
 父は、強かった。膂力ではない。乱世を生き抜いた強さであり、天下を獲った強さである。母も、強かった。心が毀れるだけの心労を負いながらも、自分を育ててくれた強さである。自分は、なぜ、これほどまでに、弱い。父は、弱さを見せないことを教えてくれた。しかし、強さを教えてはくれなかった。だから弱いのか。それも、違うような気がしていた。
 弱さを、嘆き続けていた。それでも、誰かに言ったことはない。母にさえ、知られたくはなかった。母にすら、弱さを見せたくはなかった。嘆いても何も変わらないことはわかっていた。しかし、嘆くしか出来ないのだ。強くなる方法を、知らないのだから。
 夕日の残光が、わずかに部屋に差しこんでくる。片隅の影は、濃さを増していた。厚くさえある。重い。闇が、重い。
 徳川の軍勢は、明日には大阪城に至るのだと言う。明日が、最後になるかもしれない。兵士たちは、死力を尽くして戦ってくれるだろう。己の誇りと、この矮小な主君のために。彼らに、かける言葉などあるのだろうか。死にに行くような戦だ。冬の戦役の、悲鳴と、鮮血と、恐怖を、はっきりと記憶している。
 死が、迫っているのだ。
 明日の戦で負ければ、自分は、死ぬ。それが主君の定めなのだ。死にたくないとは思わない。兵たちと死ねるなら、それで良かった。

 兵たちと、死ぬ。
 その権利が、こんな自分には、あるのだろうか。



 明日で、終わる。
 徳川家康は、蝋燭の下で酒を舐めていた。
 戦は、己の人生そのものだった。戦の中に生まれ、戦の中で育ち、戦の中で生きてきた。しかし、戦の中で、死にたくはなかった。負けたくないのだ。大将である自分の死は、負けを意味する。畳の上で、死にたいと思う。多くの人に看取られながら、死にたいと思う。
 考えて、家康は自分を笑った。
 戦の中で生きて来た人間が、戦と無縁の最期を迎えるのか。滑稽な話だった。
 戦が、終わる。
 乱世をただがむしゃらに生きていた頃には、戦が終わるなど、考えられもしなかった。しかし、明日、終わるのだ。もっとも、大阪方の抵抗も激しいだろう。それでも、終わらせるつもりだった。
 今、己が抱いている感情は、何なのだろうか。
 なぜ、念願の成就を眼の前にして、虚しいのだろう。
天下泰平のため、戦ってきた。念願だった。生涯の念願と言っても良い。だから、虚しいのか。少し、違う。自分の生きていた、一番大きな枠組みが、消える。それがゆえの虚しさなのか。それも、少し違う。
 恐れているのだ。
 乱世の中でこそ、徳川家康と言う人間は、輝けたのだ。乱世の中だからこそ、徳川家康でいられたのだ。変化を恐れているわけではない。しかし、乱世と共に、徳川家康まで消えてしまいそうな気がしていた。自分の、消滅。生きていても、輝くことができないのなら、何の意味がある。輝き方は十人十色だ。しかし、自分は、乱世の中でこそ、輝く。
 自分が、自分でなくなるかもしれない。
 矮小な、恐れなのだろうか。天下を獲らんとする男が、こんな矮小な恐れの前に慄いていても良いのか。
 しかし、やらねばならない。恐れが現実のものとなったとしても、それが天下平定のためなのだった。明日で、終わらせる。
血は、もう必要ないのだ。









 真田幸村は、麾下の三百騎を率い、隊列を抜けた。
 やはり、と思った。伊達政宗も、しびれを切らして騎馬隊だけで抜け出してきていた。側面を突こうというのだろう。自由にやらせる気は、なかった。
 後藤の太刀を、振りかざした。共に、戦っているぞ。
 疾駆する。政宗も、速度を上げてきていた。凄まじい速さで、馳せ違う。幸村は、先頭で疾駆していた。政宗も、それは同様だった。反転する。再度、馳せ違った。政宗の顔が、笑っているように見えた。自分も、笑っているのだろう。それほどまでに、通じ合っているのだ。戦場で会わなければ、良い友人になりえただろう。しかし、こうして、首を狙い合っている。
 幸村は、雄叫びをあげた。勝つ。伊達政宗に、漆黒の軍勢に、勝つ。政宗の騎馬隊と、激突した。馬の勢いは死なない。二人を、斬り落とした。そのまま、歩兵のぶつかり合いに介入する。敵陣が、わずかに乱れた。
「押せ。押し潰せ」
 叫んだ。赤備えの兵たちは、雄叫びを以て下知に応えた。気勢で、勝った。二段構えの鶴翼は、今確かに漆黒の軍勢を圧倒しつつある。
 政宗の騎馬隊は、反転していた。おそらく、最後の邂逅になる。幸村は、もう一度馬に鞭をくれた。疾駆する。雄叫びをあげ、激突した。
 政宗と、眼が合った。笑っている。
 幸村は、声を上げて笑っていた。



 負けた。
 真田幸村の、戦。
 真田家の戦のことは、良く知っていた。知略謀略を以て、小で大を討ち取る戦だ。しかし、幸村の戦は、それだけではなかった。決死の戦をする。兵の士気が、異常なほど高いのだ。真田幸村には、確かに、人を惹き付ける魅力があった。馬で馳せ違う時、眼が合った。燃えるような眼をしていた。赤地に六枚の永楽銭。その旗印に、よく似合っていた。しかし、誰よりも死を恐れていた。自分の死ではない。部下の死を、自分以外の死を、恐れているのだ。それが、真田幸村が人を引き付ける要因なのかもしれない。
 こちらの進撃は、完全に止められた。微妙な均衡の上で、持ちこたえているような状態だった。
「強いな」
 政宗は、小さく呟いた。
 これ以上の戦は、じわじわと犠牲が出てくるだろう。それは相手も同様だが、士気が高い分こちらが勝ってしまうだろう。
 次の手は。
 思考を巡らせたところで、他の戦闘に動きがあった。
 大阪方の兵たちが、退却を始めている。敗走ではない。確かな意志を持った退却とも違う。策ではなく、様子も少し慌ただしい。
「伝令、伝令」
 一人の兵が、叫びながら政宗の本陣に転がり込んできた。家康本隊の旗印を掲げている。
「河内街道にて、我が軍勝てり。大阪方武将、木村重成が、討ち死にした」
 なるほど、と政宗は瞬時に理解した。
 河内街道が攻略されては、そのまま大阪城へ至ってしまう。ゆえに、退却を開始しているのだ。
「承知した」
 家康の伝令と入れ替わるように、水野勝成からの伝令が駆けて来た。
「追撃戦に移りたいと思う。その方も参加されよ」
 伝令の兵が言った。政宗は、大阪方を見た。殿軍は、真田幸村が務めるようだ。これでは、追撃戦で犠牲者が出るに違いなかった。
「追撃はするな。これは命令である」
 政宗は、鋭く答えた。伝令が駆け去っていく。
「なぜ、追撃なされないのです?」
 家臣の一人が、訊ねてきた。政宗は、不意に込み上げた笑いを抑えることが出来なかった。家臣が、怪訝な眼を向けて来る。
「その方が、面白いからだよ」
 声を上げて、笑っていた。
 眼の前の赤備えの軍勢が、撤退を始めた。見事な手際だった。美しくさえある。
「政宗殿」
 水野勝成本人が駆けて来た。単騎である。
「なぜ、追撃してはならぬのです」
 若いな、と政宗は思った。まだ青年の面影が残っている。
「我ら徳川軍は、早朝の戦から疲弊している。大阪方の殿は真田幸村、希代の戦巧者である。これでは、追撃しても犠牲が出るのは我が方である。それに、後続の味方もわずかに遅れているようだ」
 もっともらしい理由を淡々と述べると、水野は渋柿を噛んだような顔をした。承知した、と小さな声が聞こえる。やはり、若い。
 水野が、本陣を離れていく。
 もう一度、赤備えに眼を向ける。まだ、遠くへは言ってはいない。
 単騎、政宗の前方に残っていた。眼を凝らさずとも、それが誰なのか、政宗には分かった。
 馬を反転させ、こちらを向いていた。紅の色が良く似合う、堂々とした気を放っている。その眼は、誰よりも紅く燃えていたが、その中には恐れもあった。頭上には、六枚の永楽銭がはためいている。陽を照り返し、輝いているようにも視えた。
「徳川方、よく聞かれよ」
 男が、吠えるように言った。その声は、わずかに静まった戦場に、よく響いた。
「関東勢百万の中には、男は一人も居らぬのか。これでは、未来永劫、我らを打ち果たすことは出来ぬと心得よ」
 政宗は、小さく笑った。言葉を放った後、男がこちらを向き、深く一礼をしたからだ。あの男は、政宗が追撃を押し止めたのを解っているようでもある。

 一度でも、太刀を交わせてよかった。
 政宗は、紅の男が視えなくなると、静かに馬を反した。


 漆黒の、龍が視える。
 真田幸村は、眼の前に布陣する、一万の軍勢を眺めていた。
 具足は、黒漆で統一されている。輝きを増した日輪の光を跳ね返し、黒い光を放っているようだった。それを率いる将は、旗印を見るまでもなかった。
 伊達政宗。
 噂通りの、傾奇者だった。幸村の部隊は、赤備えである。赤の軍と、黒の軍が、対峙している。絵に描いたような景色であろう。幸村は、苦笑せざるを得なかった。これも、同い年ゆえの抵抗心なのだろうか。大名か、武将か。その違いだけが、二人の運命を大きく変えたのだ。初めての、邂逅である。初めてで、これが最後になるだろうとも思う。
 後藤は、伊達政宗に殺された。仇だった。しかし、幸村は、恨みを押し殺していた。怨恨で行動すれば、見えているものも見えなくなるのだ。後藤の太刀は、今、幸村が佩いている。後藤が、側にいるような気がした。
「共に、戦おう」
 呟く。政宗の軍勢は、眼の前まで迫っていた。
 後藤の太刀を、抜き放った。刀身が、陽を跳ね返し、力強く輝いた。

 漆黒に身を包んだ騎馬隊が、突進してきていた。
 誉田廟は、小さな起伏に富んだ土地で、騎馬隊の運用には、あまり向かない。幸村は、この場所に布陣した時から、騎馬隊での戦いは無いと予測していた。伊達政宗も、それは充分に承知しているはずだろう。しかし、こうして騎馬隊の突進が来ている。
 意表を突かれはしたが、やはり速度は無かった。
「槍を並べろ」
 騎馬の勢いを、殺す。兵が、下知通りに動き始めた。その時、幸村は自分の過ちに気付いた。
「弾避けの楯を出せ。急げ」
 遅かった。漆黒の騎馬隊は、半身をこちらに向けて立ち止まっている。騎馬鉄砲だった。一頭の馬に馬を操る者と、その後ろに鉄砲を遣う者の二人を乗せている。古今に例は少ないが、有効な手である、と幸村は以前から考えていた。
 轟音が響く。楯が間に合わなかったところでは、多数の死傷者が出ているようだった。しかし、相手の想定よりもはるかに少ない人数に抑えられたのは、鉄砲騎馬の撤退の速さから推し量れた。
 漆黒の軍勢が、凄まじい勢いで進軍してきていた。
「鶴翼を敷け」
 鶴翼の陣は、軍勢を左右に大きく広げ、敵を包囲する陣形である。関ヶ原の戦役で、石田三成率いる西軍が用いたことでも知られている。
 賭けだった。
 幸村は、寡兵である。軍勢を左右に大きく広げることで、厚みがなくなる。突破される危険性が、高くなるのだ。突破されれば、部隊が分断される。一瞬で全滅する恐れもあった。
「二段に分けよ。一段目に鉄砲隊、二段目に歩兵」
 赤備えが、迅速な行動を開始した。
 今まで一枚の壁だった軍勢を、鶴翼を敷くにあたり、二枚に分けた。これで、弱点の厚みを、少しは補強できる。
 間に合え。
 幸村は、心の中で叫んだ。赤備えの布陣が万全なものとなったとき、漆黒の軍勢はあと数十歩のところまで迫っていた。

 これからが、本当の戦になる。



 伊達政宗は、真田幸村の見事なまでの采配に、内心手を打っていた。
 よく、鉄砲騎馬に気付いたものだった。あと少しでも楯を出すのが遅れていれば、ほとんど壊滅的な打撃を与えられただろう。そして、全軍での進撃にも、鶴翼を敷いてきた。
 迅速だった。しかし、こちらも勢いに乗っている。相手の鉄砲隊の弾籠めは、間に合わないだろう。あと、数十歩。
 動いた。鶴翼の構えをとった赤備えが、動いた。政宗は眼を疑った。鶴翼は、本来は防御のための陣形である。それが、逆にこちらに突撃してくるのだ。槍を並べ、一直線に向かってくる。反転の下知は間に合わない。そのまま、突っ込ませた。前衛同士が、激しいぶつかりあいを始めた。力は、拮抗している。
「騎馬隊、大きく迂回し、敵の側面を突く。俺に、付いてこい」
 向こうの方が、士気が高い。それはなぜかはわからないが、後藤又兵衛の旗を持った兵が、最前線に立っている。その背中が、味方を鼓舞しているとでも言うのか。それならば、この士気の高さも、頷けた。このままでは、犠牲が出るのはこちらのほうだ。
 伊達政宗は、麾下の千騎のうち、半分の五百騎を率いて、赤と黒の塊を抜けた。
 その刹那、政宗は自分の眼を疑った。

 ようやく、石川の西、誉田廟に到着した。戦の気配はない。もう集結したのか、それとも、元から干戈は下げられていたのか。
 石川の先に、小高い山が見える。そこから、数百人の武士が、こちらへと駆け寄ってきていた。
 良く知った旗を、掲げていた。その旗の持ち主の姿は、見えない。真田幸村は、持っていた槍を落としそうになった。信じられなかった。信じたくはなかった。
「後藤殿の旗じゃ」
 家臣の一人が叫んだ。
「報告致します」
 幸村の前に、伝令に発した兵が駆け寄って来た。
「後藤又兵衛殿は、敵の銃弾を受け、自裁なされた」
 後頭部に、鈍い痛みが走った。あの、後藤が死んだのだ。また、英傑が死んだ。
 幸村は、槍を強く握りしめた。
「敗走してくる部隊を収容する。騎馬隊、先行して徳川の追撃を防げ」
 大声を上げた。すぐに、部隊が動き始める。
 時代が、後藤の事を不要としたのか。ならば、なぜ俺は生きている。友の一人を信じ切れなかった俺が、なぜ生きている。
 徳川軍の追撃は、すぐに振り切れたようだった。敗残兵が、幸村の陣に加わる。
「真田殿、よく、御到着なされた」
 生き残った後藤の兵が、眼に涙を浮かべながら言った。
 眼は弱々しく光を放ち、手足が震えている。よほど、凄惨な戦をしていたのだということが、良くわかった。とうに限界を超え、精神だけで立っているのだろう。
「後藤様は、最期まで、真田殿を信じておられた」
 耳を塞ぎたくなるのを、幸村は必死に堪えた。この言葉を聴くのは、己の義務だ。
「これを」
 男は、腰に佩いていた太刀を、幸村に差しだした。
 後藤の、太刀だった。
 幸村は、両手で受けると、静かに肩を振るわせた。涙の粒が、その鞘に落ち、ゆっくりと伝わった。
 生きろ。
 太刀が、叫んでいる。後藤が、叫んでいるのだ。
「闘おう」
 吠えた。涙を拭おうとは思わなかった。

 闘うしか、無いのだ。
 それ以外の生き方を、幸村は知らない。



 赤地に、六枚の、永楽銭。待ち侘びていた。
 伊達政宗は、口元で小さく笑った。
 後藤又兵衛を討ち果たしてすぐ、猛虎の軍勢は敗走を始めた。追撃は、しなかった。もし生き残っても、あの疲労では、歩くこともままならないであろう。無用な犠牲も、払いたくなかった。味方が、勝手に追えば良いのだ、求めていたものは、今、ようやくここに辿り着いた。
 真田幸村。
 同じ時代、同じ年に生まれた。しかし、まだ一度もその道は交わっていない。冬の戦役でも、それより以前でも、干戈を交えたことはないのだ。恋焦がれる気持ちに近かった。赤地に、六枚の永楽銭。三途の川の、渡り賃と言われている。その旗の下に集う、赤備えの強者たち。武者震いを、抑えきれなかった。
「このまま、大阪への進軍を続ける」
 政宗は、徳川全軍に下知を飛ばした。
 政宗の隊を先頭に迅速な行動がなされた。見る見るうちに、赤備えの軍勢が近づいてくる。強者を眼の前にして、政宗の歩は自然と速くなっていた。
 赤備えは、三千を越える程度と言ったところか。三千と一万が対峙する。両軍から発せられる闘気は、大地を割るほどに凄まじかった。闘気に、圧されそうになったことなど、初めてのことだった。これが、真田幸村の放つ気なのだ。
「さあ、勝負しよう」

政宗は、馬の手綱を強く握りしめた。