今日も、暑い。
真田幸村は、武具の手入れをしていた。遠くに、小さく徳川の軍勢が視える。
死は、隣に座っている。しかし、幸村の心は、ひどく穏やかだった。自分の手勢にも、焦りを感じている兵はいないようだ。皆、武具の点検を行っている。良い雰囲気だ、と幸村は思う。天下を決する戦いに、微塵も恐れを抱いていない。これならば、満足のいく戦が出来る。赤備えの鎧兜が、昨日よりも美しかった。
戦いを待ち侘びてもいた。間もなく、正午になる。徳川方の中では、常に忙しない連絡が交わされているようだ。伝令役と思しき兵が、陣と陣を行き来しているのが見える。
徳川の本陣は、大阪城の南西、天王寺口にあるようだ。主戦場は、大阪城の南になるだろう。しかし、今回は、籠城はできない。冬の戦役で、大阪城は裸城に等しくなったからだ。城に残るのは、秀頼と淀、それに少しの側近である。
幸村は、篠山よりも南、敵の陣に最も近い、茶臼山に布陣していた。高地なので、敵の全容が見渡せる。十五万は超えそうだった。大阪の兵力は、五万強。相当な寡兵である。そのうち、幸村は昨日から変わらず、三千の兵を率いていた。鍛え抜かれた、歴戦の強者たちである。
「そろそろ、徳川も動いて来よう。皆、準備をせよ」
戦の気が、昂っていた。開戦は、近い。
「毛利との連絡を密にする」
毛利勝永は、幸村よりもわずかに東に布陣している。敵陣に、最も近い武将の一人だ。
茶臼山で、朝、軍議が開かれた。大阪方の取る作戦は、唯一つである。全軍による、特攻。戦が長引けば、寡兵である大阪が不利になる。短期決戦に討ち取る他なかった。
「真田殿」
戦を眼の前に、最も聞きたくなかった男の声が聞こえた。
「小幡殿か」
小幡景憲。後藤の太刀が、鼓動したように感じた。
「やはり、特攻の策はやめるべきではないのか?」
この男は、またも作戦に異を唱えた。この男がいたから、過去に大阪は一枚岩になれなかったのだ。
「黙れ」
低く、答えた。
「お前が、徳川と内通していることは知っている」
小幡の顔に、明らかな動揺の色が浮かんだ。
「去ね。さもなくば、斬る」
幸村は、抜刀の姿勢をとった。
「何の、証拠があろう?」
小幡も、抜刀の姿勢をとる。
「しかし、真田殿。私に勝てるとお思いなのか?」
小幡は、相当な剣の遣い手だった。戦でも、多数の首を挙げている。しかし、負ける気はしなかった。今の自分なら、勝てる。
小幡が抜刀する。幸村は、抜刀の姿勢を解いた。構えはとらない。
「大した自信だ」
小幡が薄ら笑いを浮かべた。一直線に、突っ込んでくる。息をするように、幸村は身をかわした。瞬時に抜刀し、峰で小幡の背を打った。小幡が、前のめりに倒れ込む。
「刀の錆すら、お前には惜しい」
幸村は、納刀して言った。
「もう一度言う。去ね。次は、斬る」
低く、腹の底から響くような声だった。小幡に、背を向けた。振り返った時に、まだそこにいれば、問答無用で斬るつもりだった。
十を数え、振り向く。誰も、いなかった。
幸村は、記憶からあの小男を抹消した。
眼の前の戦に、向き直る。やはり、死が隣にいるようだった。
戦を前に、最後の集まりがあった。
豊臣方の猛者が、一堂に会している。圧倒されるような、気を放っていた。
豊臣秀頼は、居並ぶ諸将の顔を、一人ずつ順に眺めていった。皆、この弱き主君のために、命を捧げる覚悟なのだ。
秀頼は、静かに口を開いた。
「皆、よく聞いてほしい」
声は落ち付いているが、部屋によく響く。
呼吸を、二つ。秀頼は、再び言葉を発した。
「今までの働き、誠に殊勝であった」
この場で言う言葉は、前から母に決められていた。原稿を、ただ抑揚をつけてそらんじるだけが、今の仕事である。母に、申しつけられていた。しかし、これで良いのか。
「憎き古狸は、もはや眼に見える位置にまで迫ってきている。戦ってほしい。その血を、魂を、大阪のために遣ってほしい。今まで、亡き秀吉殿下が、貴公らに与えた恩賞は、イカほどであったか。秀吉殿下のため、豊臣家のために、今一度、奮起してもらいたい」
これで、良いのか。
秀頼は、唇を噛み締めた。沈黙する。淀は、傍で聞いているはずだ。その顔に、心配するような表情が浮かんでいるのは、見なくてもわかった。
「皆」
秀頼は、ようやく口を開いた。
「皆、私は、弱い」
声が、ふるえていた。もう、言葉使いすらも、関係ない。言おう。自分の、正直な、本当の言葉を。
「私は、どうしようもなく弱い。誰かに支えられねば、自ら立つこともできないほど、弱い。ただ一つの鉄の塊を見ただけで、竦み上がってしまう。眼の前で人が死ぬだけで、背筋が凍る。大阪の街が取り壊されるのを見ただけで、立ち直れなくなる」
淀が、動かない。意外だった。しかし、その理由は、武将たちの顔を見れば、よくわかった。
「私は、戦で比類なき槍働きが出来たわけではない。兵法で、大なる兵を打ち破ったわけでもない。商売で、大成功を収めたわけでもない。しかし、ただ天下人の子だと言うことだけで、主君になってしまった。本当に、情けないと思う。ただ、戦を見ていることしか出来ないのだ」
言葉は、雨の滴が垂れるように、ぽつりぽつりと浮かんできた。
「それでも、お前たちは、私を守ってくれた。天下の勢はもはや決しているのに、お前たちは豊臣を望んでくれた」
秀頼の声だけが、部屋に響き渡る。
「私は、お前たちと共に戦いたいと思う。お前たちの足がもげようなら、私はお前たちの肢体となろう。お前たちの腕がもげようなら、私はお前たちの両腕となろう。お前たちの心が折れようなら、私はお前たちの魂となろう。共に、戦おう。戦って、勝とう」
秀頼は、涙を流していた。
気付けば、全員が涙を流していた。
言いたいことは、これですべてだ。言いきった。正直な言葉を、正直な心で。
「槍を持て。鉄砲を持て。豊臣家の誇りは、お前たちだ」
「応」
秀頼の叫びに、皆が武者面を以て応えた。
「父上」
秀忠が、絶句していた。秀忠の言いたいことは、すぐにわかった。
家康は、具足をつけていなかった。
「今日も、暑いな」
家康は、それだけを言った。
余裕ゆえの着物ではない。部下に、安心感を与えるために、具足をつけなかった。大阪方の闘気には、並々ならないものがあった。部下も、あまりの闘気に恐れを抱いてしまうだろう。しかし、大将が余裕を持っていれば、部下も安心する。家康の狙いは、そこにあった。戦も、すぐに終わるだろうとの見解もあった。
秀忠は、それを承知の上で、家康の身を案じているのだろう。その心遣いは有難いが、まだわかっていないのだ。
「これで良い」
家康は、落ちついた声で言った。
「出陣の法螺の音をあげよ」
秀忠が、食い下がった。
「秀忠よ、早く己の陣に戻れ。戦ぞ」
渋々といった面持ちで、秀忠が踵を返す。
法螺貝が、吹かれた。全軍から、雄叫びが聞こえる。
「さあ、大阪の者ども。どれだけ粘ってくれるかな」
家康は、不敵に笑った。最後の、戦である。この体の震えも、この高揚も、これが最後なのだ。
兵力には、三倍の差がある。間違っても、負けはしないだろう。
伝令の兵が、盛んに行き来している。まず干戈を交えたのは、天王寺口の本多忠朝で、毛利勝永の隊に突っ込んだようだ。
全軍が、動き出している。
「伝令、伝令」
まだ開戦間もないと言うのに、一人の伝令が、ただならぬ顔で本陣に飛び込んできた。
「今すぐ、お逃げください」
伝令の背には、矢が突き立っていた。言葉を発すると、使命をやり遂げたように、倒れ込んだ。
家康の眼の端には、紅の光が、かすかに見えていた。