哲学的ゾンビは、英語では、Philosophical zombie と言い、The walking dead のようなホラー映画に出てくるゾンビたちと区別するために、現象ゾンビ(Phenomenal Zombie)とも呼ばれることもあります。哲学的(philosophical)の p をとって p-zombie という略称で言われることもあります。

哲学的ゾンビとは、『心の哲学』(philosophy of mind)という、心の働きなどを扱う学問の中で使われる言葉で、"物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、クオリア(=意識)を全く持っていない人間"と定義することができるようです。

『哲学的ゾンビ』という言葉を聞くと「哲学的ゾンビってどんなゾンビ?」と思うのが自然だと思いますが、哲学的ゾンビは、『心の哲学』においての理論上の概念であり、仮想上の存在なのです。何故なら、「快」の意識や「怒り」の意識など、人間らしいクオリアが全くない人間なんていないですからね。

しかし、仮想にせよ「ゾンビワールド(哲学的ゾンビだけが存在する世界)がある」という前提で考えると、「ゾンビワールドがあるのだから、現在の物理法則では、全てを説明しきれないではないか」という論証が成り立ちます。これを 『ゾンビ論法』(Zombie Argument)と呼びます。

乱暴なくらいすごく簡単に言ってしまうと、そんな感じです。

ところが心理学系のジャンルの作家で、『ミーム・マシーンとしての私』という本(この本は 昨日の記事の最後部で紹介させて頂きました)で有名な、イギリスのスーザン・ブラックモアの、『哲学的ゾンビ』についての考えは違います。かみ砕いて書くとこんな感じです・・

”意識は錯覚だし、自我なんてない。「私はここにいる」と思ったとしても、その「私」は一時的な虚構。

脳は物理法則で動いている。だから、生き物には自由意志なんてない”

・・なんだかとっても般若心経の世界観に似ているように私には思えます。。。

ブラックモアのこの主張が正しい、と考えるなら、人間は、コンピュータのCPU のように Input-Process-Output というサイクルを繰り返しているだけの、、そう『哲学的ゾンビ』そのもの、、と言うことになるのです。

一方で、数学者であり哲学者でもあるデカルトは、実体二元論(=Substance dualism)の見地から、心は物質に依存せずに独立して存在する『実体』だと明確に主張しました。一元論的考え方だと、心と体が異なる存在だとは言えない、となりますが、多くの人は、直感的に、「心と体は別です」と言いたくなるでしょう。なので、二元論の方が優勢です。(実際には、この辺の色々な理論は、もっともっと複雑です。ご興味のある方はリサーチしてみてください。)

余談ですが、『心の哲学』では、"心的出来事の主観的側面" のことを『クオリア』と呼びます。

人が体験するクオリアには、五感や痛感などがあります。

よく晴れた大空を見て「ああ、真っ青できれいだなぁ」と思うのは視覚体験のクオリアです。バラの花の匂いをかいで「ああ、いい匂いだなぁ」と思うのは嗅覚体験のクオリアです。

クオリアは、みんな持っていますが、個人個人のクオリアが他人と同一ということはありません。分娩の痛みは、奥様方で「あれ、痛いよねーー」と共感できたとしても、実際には、全く同じ痛みということはなく、個人個人で痛みの程度やあり方は異なりますね。

しかし、逆に考えると、例えば聴覚体験のクオリアで言うと、日本人が英単語の語頭の L の音と R の音 を区別できないのは、日本人にとって、この2つの音のクオリアが区別されていない、つまり同一のクオリアだということが言えるのです。


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