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 新年度が始まった。あの飲み会から一週間が経過していた。私は翌日からの出張を前に、通常どうり出勤し、出勤簿に押印する。もうこれでしばらくこれも行うことはないだろうと思いながら。そして、ふと後ろを振り返ると、彼女がびっくりした顔で私を見ていた。

「あれ?今日からじゃなかったんですか??」
驚いた顔の表情に、わずかながら喜びのようなものも含まれていたような感じがした。
「いやいや、明日からだよ?」
「てっきり今日からかと思ってました!」
 しばしの別れを惜しんでいてもらえているように思えて、少し嬉しい思いがした。しかしこの子とも数ヶ月顔を見ることもないと思うと少し寂しい気がした。しかし、そこで今日、この子に頼み事があることを思い出した。先日任期が終了して帰郷した別の男性アルバイト職員の携帯のメルアドを聞き忘れていたため、彼のメルアドを知っている彼女に自分のメルアドを彼に送ってもらおうと思っていたのだ。基本的に他人から他人の情報を聞くのはあまりよろしくないと思っていたからだ。
 昼休み前だっかたか、私は彼女に自分のメルアドと電話番号を書いたメモを渡し、用件を話した。彼女は快くそれを聞き入れてくれた。当然、これによって彼女には私のメルアドが伝えられることになるのだが、特に彼女が私にメールを送ってくることなどないだろうは思っていた。しかし若干の期待をしていたのも事実である。
 その夜は翌日の準備は早々にすませた。私の住んでいた賃貸マンションは、私が出張中に一戸建てへ引越することになっていたので、簡単に自分の物の荷造りをする必要があった。私の家も、今度帰ってくる時は別の場所になっているなあ・・・と、感慨深げに整理していると、携帯にメールが入った。あ、さっそくあの帰郷した彼からのメールだろうと思い、携帯を開いた。ん?・・・これは・・・彼からではない、あの彼女からのメールだった。
「メルアド、登録しました。これからもどんどんメールしていいですか?」
という内容だった。女の子らしく、顔文字を含めたメール文。私は普段からメールはほとんどしないし、ましてや妻以外の女性とはメールのやりとりなんてほとんどなかったため、どう返信していいのか一瞬戸惑った。しかし、その反面、胸が高鳴ったような気がした。出張中は、妻以外、知り合いとメールや話をすることなどないだろうと、少し寂しい気持ちがしていたが、何か新しい友人ができたようで、寂しさが少しでも解消できるのではないかと、嬉しい想いがした。彼女には、どんどんメールしてきていいよ、と返信しておいた。
 私は、新年度早々に関東に三ヶ月間もの出張を控えていた。生まれて初めての一人暮らしに不安と期待を感じていて、長期間の不自由な生活と、家族との束の間の別れ、特にかわいい娘との別れにかなり憂鬱になっていた。
 そんな中、職場の有志が激励会を開いてくれることとなった。場所は街のとある居酒屋。席順は職場の慣例でくじ引きと決まっている。席なんてどうでもいいけど、久々の飲み会なのでいっぱい飲んでやろうと思っていた。くじ引きの結果、私の右隣りには、別の係の女性アルバイト職員が座ることになった。

 彼女は私より一年早く配属されていたが、私が配属されてからもまともに話などしたことがなかった。特別、意識もしたこともなかったが、小柄でオシャレな、今時のかわいい女性だった。年齢は私より7つ下。まだまだ子どものようにも見えた。彼女は以前から職場の飲み会では酒に酔いつぶれることが多かった。そんな彼女に一度だけスポーツドリンクを渡して酔い覚ましの手助けをしたことがあった。
 酒が幾分まわってきたところで、彼女といろいろ会話をした。彼女には彼氏がいて、最近ブライダルフェアに行ったとか、はたまた関係がうまくいってないとか、という話。私も嫁の話や、結婚前の話、夫婦なんてこんなもんだ等々・・・。そうこう話しているうちに、彼女が、思いもよらぬ事を言った。

「私、好きなんです」

私は一瞬面喰ったが、よくある冗談だと、その時大して気にもしなかった。すかさず、目の前にいた男性アルバイト職員が、「そうなんですよ、前からずっと僕にも先輩が好きだって、この子言ってたんですよお」と。彼の顔は、いったいこのオヤジくさい男のどこがいいんだ、と言ってるように見えたが、彼女はそっと微笑んだままだった。話を聞くと、よく風邪をひくこととか、見た目に反して弱いとか、ひょうきんだとか・・・とにかく「かわいい」らしい。そこが好きなのだと言う。全く理解に苦しむが、嫌われているのでもなく、好きなのもまんざら嘘でもないようで、そう言われて悪い気もしなかった。しかし、だからと言ってどうしようという気持ちもその時はなかった。
 
 その日はかなり飲んだ。気持ちが悪くなるくらい。飲み会の中で誰とどんな話をしたのかとかよく思い出せないほどだった。しかし、ひとつの事実だけはしっかり覚えていた。


 あの彼女の一言だった。

「もうつきあっちゃってるです。」

私は秋が嫌いだ。秋になると必ずろくでもないことが起こる。あの蒸し蒸しと、ギラギラした鬱陶しくも騒がしく、それでいて気持ちの明るくなる夏が過ぎ、早く日が暮れて、空気はどことなく物寂しさを感じる秋がどうしても好きになれなかった。
 そんな秋の夕刻、私は車を運転しながら自宅近くまで彼女を送り届けようとしていた。その言葉は、隣に座っていた彼女の口から発せられた。私は前を向いているので彼女の表情は見えなかったけれど、おそらく、表面上は笑顔で、心中は複雑だったに違いない。私は、

「あ~、それはよかった、おめでとう。いつからなの?」
と聞き返した。

「ううん、一ヶ月くらい前かなあ。」

 私は彼女の新しいスタートを祝福し、喜んだ。彼女もありがとうと答えた。何かよくわからないけど、よからぬ不安を感じながらも・・
 それからすぐ、彼女の家の近くに到着して、彼女を車から降ろした。もう「あの頃」のように、別れ際の寂しい表情と、名残惜しそうに私の腕を触る彼女の無邪気な仕草はなかった。私も内心、いろいろなシガラミから開放されたのだろうと思い、どこかホットしたような気分がした。しかし、妙に落ち着いた自分が恐ろしかった。しかも頭の奥底から何かが鳴るよう音がした。

 それは嵐の前の静けさであり、これから始まる、胸の張り裂けそうな、苦々しい日々の予鈴だった。
 

 事の始まりは、2006年の春に遡る―。