契機にあたる部分について今回は話したいと思う。

人生が変わる契機を如何に意識的に創り上げるかというもの。

悲しいことに人間だれしも同じようにそんな機会が訪れるかというとそうではない。

抑々、人生が変わってしまうような契機を望んでいる人が多いとも限らない。

建設的な人生設計を行っている、登山中の諸君にはきっと興味がない話であると僕は思う。

ただ建設的に生きるというのは、根本的にどうなんだと思える部分が多少なりとも存在するので必ずしも其方が魅力的かというとそうではない。

頭の足りないつまりは見識が狭い人間は、既存の突発的な事象を求めるが(空から人間が降ってくる。運命の人と突然出会う等)、やり方として其れは今一つだと僕は思う。幾らBETしたところで、虚しいだけだろう。

今回、鍵となるのは空間的加重にあたる部分についての話。加重だ、新たな知識が既存の知識と結びついてより大きな興奮を覚え、脳細胞が活性化するそんな体験への示唆だ。ポイントとなるのは、アナロジー(類推)とアブダクション(推定)だと私は思う。

新たな知識つまりは新たな衝動を受け取った際、其れに通ずる既存の知識があれば自ずと結びつき、加重を引き起こし新たなアブダクションを産み出し、半永久的なサイクルを可能にさせる。此処で大事なのは、より多様な図式を知っている事が重要であると私は思う。

金という概念を知らない人間に対し、金を差し出しても何も反応を示さない様に、其れまでに知っていないと"意味を為さない知識"というのが存在する。だから、より感動したければ変化を好むパーソナリティであることが重要だと私は思う。

鬱病の主症状である覚めやらぬ鬱を感じていたりする人間らは何処か、"思い込み"が激しかったりするのもそんな因子が潜んでいたりするのかもしれない。まぁ此処で気づいた人が居るのかどうかは分からないけれど、変化を好むパーソナリティを育てる為には時として社会という枠組みから超える必要があったりするので、先天的な恐怖に打ち勝てる様な人間でなければならないのかもしれない。若しくは器質的な因子も関わっているのかもしれない。

話は変わるが、変化を好むパーソナリティであることが恐らくレジリアントへの最低条件であるとも私は思う。

そんな人間多くはないが、変化を受け入れろと定言命法を用いて駒を進めるだけでも、きっとシナプスは活性化していくだろうと自分なんかは思ったりする。手術によって、自らの病気が治る様に気質など適切な処置を施せばいやでも変えられるのだ。

まぁ、他人の言葉によって意図的に変えられるのは何だか複雑な気持ちかも知れないが、元をただせば君は絶えず変化している最中なのだから、そんな当たり前を受け容れてやるだけでいいんだ。

これ以上進めばきっと後戻りはできなくなる、というヒリヒリした変化を求めている時ほど愉しい事はないからなにも恐れず自分の思うがままに舵を切るといい。此処で邪魔となるのは、他人の存在だ。

君にも経験があるのか分からないが、人間というのは初めは「一緒に走ろうね。」なんて言っているが、勝負が始まるや否や自分が不利益を被っている事を自覚すると途端に足を早めたりするものだ。言われた人間が後で思うのは、「最初はあんなこと言ってたのに・・・。」みたいな笑。言われて其れに肯定的なフィードバックをかえし、また言ってきた人物より足が遅い場合、言われたほうが必ず損する仕組みにあるんだ。まー、授業に対して価値を見出していないのなら、そんな結果もえられそうにないが。とにかく不利益を感じる事に対して、人間はかなり敏感な生き物なんだ。其れが先ほどの話にどうかかわってくるのかといえば、変化を常に求め他人の常識つまりは自分の常識を超克する人間というのは向上心の無い人間から見れば、目障りでしかないのだ。其のまま自分を否定する人間だからね。

其れに此処で大事なのは、必ずしもそうでなくとも例えば、自分は特別だと思い込んでいる人間がいたとすれば、そんな自由に変幻する他人を見て何を思うだろうか。此処で実際に行われるアクションといえば、自らの世界に取り入れてしまったり、そんな人間に対して不利益を感じさせるように無視などの否定的なフィードバックを返したり、といった具合だ。実に下らないだろう。

回避したければ持ちつ持たれつ、或いは持ちつ縋られつつが保てない関係の、他人は自らに悪影響を及ぼすかもしれないといった事を頭の隅にでも置いておくといい。構えずとも、何だかこの人からは嫌な匂いがするといった理由で素直に決別を図る方法も存在するので、まー柔軟な対応が望まれるだろうね。

そしていわんや、此処にも落とし穴があって極端に他人を拒めばパーソナリティ障害への因子にもなりうるということ。

社会に期待されるパーソナリティではなくなってしまうのだ。何故なら他人という記号に対してマイナスなイメージを孕んでいるからね。

従って、あくまで自分は自分、他人は他人と割り切ってしまうのが重要といえよう。見下すわけでもなければ、比べるわけでもなく、

自分は自由気ままに新たな自分を求めて旅をしているだけという意識に当たる。無論、他人との摩擦は時として存在するが其れも新たな知識として飲下し、また旅を続ければ良いと僕は思う。結果を求める際に、金銭にのみ価値を見出すのは一つの価値観であるから別に自分が楽しければそれでいいんじゃないって僕は思うよ。金銭ってのは求めれば手にはいる様なモノではないからね。

生活に困るほどの貧窮生活を虐げられているのなら、自分の為にもまずは稼ぐといい。

どんどん余裕がなくなり、より強迫的な思考となり、あげく自己破壊衝動なんかを孕んだりするからね。

 

"過酷な自由"をどう生きますか。