ふりーばーど

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私の聖書勉強、他徒然

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久しぶりにアメブロに投稿します。

ブログから遠ざかっていた経緯につきましては私の本ブログ「ジンライムの一路」の記事に投稿いたしました。

 

 

 

この記事で取り上げている↓のみことばがこの記事を書くきっかけとなりました。

 

20 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。21 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。22 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。

マタイによる福音書9:20-22

 

お読みいただければ幸いです。

 

また少しずつ更新をはじめたいと思っています。

7 寄り頼む者をそのあだから右の手で救われる者よ、あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし、8 ひとみのようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、9 わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。
詩篇17:7~9

ダビデは恐ろしい敵に囲まれる中で神と向き合い、切実な祈りをささげています。妙なる慈しみに寄りすがる祈り。自己に絶望した絶体絶命の寄りすがりです。ひとみのように大切なものとして守られ、親鳥の御翼の陰に匿われる小鳥のように愛し、保護されることを切実に求めます。

何と多くの人たちが深い悲しみに陥っていることでしょうか。彼らは山の深い谷間に落ち、自分の歩みが大地に倒れた横木に遮られているように感じていることでしょう。それは、あるいは、ジョン・フォーセットが詩の中で次のように述べているのと同じ思いかもしれません。

「我が魂は嵐の中で動揺し、
望みは打ち砕かれ、
心に思うことは混乱する。
そして、日々新しい苦難が現れる。
この光景はいつ閉じられるのだろうか。」


しかし、神の永遠の愛を少しでも垣間見ることができれば、私たちは神の右の御手の近くにいることに気づくのです。このことを体験できるように、神にこう祈りましょう。「あなたの右の手で、奇しい恵みをお示しください」(詩篇17:7)と。神はそうしてくださいます。必ずしもあなたが望む方法でなく、神が望む最も良い方法であなたを養育し、導き、そして、苦難から助け出してくださいます。

(アーメン)

「あなたの道を主にゆだねよ。/主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とダビデは祈りました。しかし、あなたが神と向き合うとき、常に思いがけない、奇跡的なことが起こることを期待してはなりません。あなたが以前には決して見ることのなかったことを、神から、また神において見ることができるように期待しましょう。どこにでもおられ、忠実で、また真実であられる神と向き合うとき、全く不可能に見える事柄も、実現する可能性が最も高いものとなるのです。

神はあなたに恵みを与え、厳しい苦難から救い出すための手段として、この黙想と詩篇のことばを用いることができるように、あなたを整えてくださいます。

《祈り》
主よ、どのような危険と誘惑の中でも私をひとみのように守り、常に御翼の陰に隠してください。
 

神は存在するすべてのものの第一原因(最初の源)であり、無限で、永遠、自存の存在として聖書に啓示されている。このことはさらに簡単に言えば、神が存在しなかった瞬間はなかったということである。

「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまで、あなたは神です」(詩篇90:2)とモーセが主張している通りである。

つまり神は永遠に、無限に(初めも終りもなく)存在しているということである。神は天と地にある創造されたものすべてより先に、それらのものと無関係に存在しておられる。

 

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アーメン。
1テモテ6:16  

この聖句は神がその被造物とは異なる独立したお方であることを表している。これは神が人間であれ天使であれ、霊であれ物理的なものであれ、造られた何よりも高くはるかに越えておられるという意味である。

神と造られたものとの間には著しい区別があるが、神は世界や人類の歴史の中に存在し、活動しておられる。このことの最大の証拠は、御子である神が「人となって、私たちの間に住まわれた」ことである。

それは神に対する私たちの罪の代価を完全に支払うために、ご自分の完全ないのちを犠牲としてささげるためだった。その犠牲によって、キリストの赦しを受け入れ、人生をゆだね、キリストを信じる信仰を持って生き続ける人々は、罪と霊的死から解放される。
 

 

 

 

神は人格を持つ存在であり、「ご自身のかたちとして」アダムとエバを創造された方として啓示されている。神はご自分に似せて(愛やそのほかの特性を反映して)男と女を創造されたので、神と交わり神に応答することができた。
 

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
創世記1:26  

男も女も神の「かたち」に「似せて」造られた。それは愛と人格を反映させている髪との独特な個人的関係を、持つことが出来るということを意味している。アダムとエバは神に似た姿を持っていた。そして霊、精神、感情、自己認識、選択する能力を備えた人格的存在として創造されていた。

神はまた道徳的存在で、すべてのものを罪のない良いものとして創造された方として啓示されている。創造の働きを終えたあと、神は造られたすべてのものを見て「それは非常に良かった」と言われた。
 

 

 

 

アダムとエバは神のかたちに創造されたので罪がなかった。エバが誘惑に応じた時に、罪は人間存在の中に入ってきた。サタンは蛇を用いてエバをそそのかし神の喜ばないことをさせようとした。それが誘惑だった。こうしてアダムとエバはともに神の命令を無視して神に逆らうほうを選んだ。

 

このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

ローマ書5:12