現存している利休居士像を紹介します。

 

長谷川等伯筆利休像 賛春屋宗園 黒頭巾の絵

絹本著色 縦80.6・横36.7
桃山時代(文禄4年・1595)制作
不審庵所蔵 重要文化財

 

利休没後に等伯が描いた肖像画で、利休の肖像としては最も著名な作品である。

 千利休(一五二二-一五九一)の画像としてもっともよく知られているものである。

画面上部には文禄四年(一五九五)九月十五日の春屋宗園【しゆんおくそうえん】の賛があり、

宗園の語録『一黙稿』にも収録されているが、これによれば、

本像は楽家初代の田中宗慶の依頼によって制作された遺像であることが明らかである。

本像を収める箱には「利休居士像 不審庵」という千宗旦の墨書があり、

千家三代目の宗旦の代には千家の所蔵に帰している。

『隔〓記【かくめいき】』によれば慶安元年(一六四八)に宗旦が催した茶会にすでに掛けられており、

その時期をおおよそ知ることができる。

なお、本像の制作を依頼した田中宗慶の孫である道入の通称「のんこう」は、

宗旦が伊勢参宮の途中に能古茶屋にて竹花入れをつくって「ノムカウ」と命名して

道入に贈ったのが気に入って座右に置いていたのにちなむといい、

このような両者の関係に、本図が楽家から千家に譲られたいきさつの一端をうかがうことができる。

絵に落款はなく、筆者を確定するにはいたらないが、画風から長谷川等伯筆と考えられている。

等伯(一五三九-一六一〇)はこの像が描かれた前年に宗園の頂相を描き(重要文化財 三玄院所有)、

天正十七年(一五八九)には宗園の塔頭、三玄院の襖絵(重要文化財 現円徳院所有)を描くとともに、

利休一族の寄進によってなった大徳寺山門上層の彩色をおこなっており、利休の画像を描くにふさわしい。
 

 茶道を大成した千利休の画像として重要であるだけでなく、

利休をとりまく諸芸に秀でた人びとの一端を知ることができる点でも貴重な画像といえるであろう。

文化遺産データーベース

 

春屋宗園賛

 

頭上巾兼手中扇厳然遺像 

旧時姿 趙州且座喫茶底 若不

斯翁争得知

      利休居士肖像常随信男
      宗慶照之請賛伽陀一絶係
      上完香供云
       文禄第四乙未歳舎季龝念四

            三玄春屋叟宗園

 

ずじょうにきん かねてしゅちゅうにおおぎ げんぜんたるいぞう
きゅうじのすがた ちょうしゅうしゃざきっさのてい 
 もしこのおうにあらずんば いかでかしることをえん

 

頭の上の頭巾、そして手に持っておられる扇子。おごそかにおられる昔ながらのお姿。

趙州和尚がいわれました。「まあ、座っていっぷくのお茶でも飲みなさい。
それは利休さんでなければ、どうして知ることができるだろうか」

 

長谷川等伯筆利休像 賛古渓宗陳

絹本著色 縦・横
桃山時代(天正11年・1583)制作
正木美術館蔵 重要文化財

 

利休の存命中に描かれた唯一の作品「千利休像」(重文、伝長谷川等伯筆)

千利休生前の姿を描く唯一の肖像。画面には大きな体躯の男が、

上げ畳に静かに着座する。「茶聖」と呼ばれた利休のイメージとはかけ離れた、

堂々とした体躯と強い眼差しが、茶道を大成した気骨稜々たる人物であることを示す。

その上部には参禅の師、古渓宗陳による賛があり、この肖像が天正11年(1583)に描かれたことがわかる。

その年利休は62歳、天下人になった秀吉の茶頭を務めるなど、絶頂期にあった。
筆者については長谷川等伯と伝わる。この利休生前の肖像が、はからずも茶人「滴凍」のもとに収まった。

正木美術館

 

狩野永徳筆利休像 賛春屋宗園 赤頭巾の絵

堀内長生庵蔵

 

堀内長生庵利休忌

 

長生庵「利休忌」は伝来の利休像をまつる年一回の行事で、この利休像は伝狩野永徳筆で、春屋宗園(円鑑国師)の賛語があります。

また外題は仙叟宗室(裏千家四代)で、昔は今日庵に伝来したものらしく、仙叟時代に山田長左エ門氏の所蔵となり、賛語の極めを大徳寺玉舟和尚にもとめられた極め状が添えられています。

この画像は、初代仙鶴の頃に山田家から当庵に譲られたらしく、その後茶家として秘蔵し、五十年に一度の居士年回茶事と、年一度の「利休忌」にのみ床にかける習わしとなっています。

茶の湯歳時記 炉編 堀内宗完著 より