閑不徹  かんふてつ

雲在嶺頭閑不徹、水流澗下太忙生

雲在嶺頭閑不徹(雲(くも)は嶺頭(れいとう)に在(あ)って閑不徹(かんふてつ))
水流礀下太忙生(水(みず)は礀下(かんか)を流(なが)れて太忙生(たいぼうせい))》

『虚き堂どう録ろく』、『嘉泰普灯録』他

雲は山頂に静かに浮かび、水は礀間(たにま)を忙しそうに流れる。
その雲や水の無心の状態をうたう。
中国南宋の虚堂(きどう)禅師(1269年没)が
報恩寺を隠退されるときの偈頌(げじゅ=禅意を述べる詩)の転結二句である。

閑不徹の不徹は、閑(しず)かさを強める助けことばで意味よりも雲の無心さを読みとるべきだ。
「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」(芭蕉)に通じる無心の深さをいう。
不徹は「しみ入る」徹底の徹底といえよう。

太忙生の生も、さきの不徹と対応する語ではないが、
やはり水の流れの無心さを味わうべきであろう。
「岩もあり木の根もあれどさらさらと たださらさらと水の流るる」(甲斐和里子)の一首をおもう。
流れて行くさきざきにさまざまな障害があっても、水は無心にさらさらと、たださらさらと流れて行く。



 「閑不徹」とは、『虚堂録』等の「雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生」によるものです。『禅語字彙』の解説によれば「雲は閑かにして無心、水は忙しく流れて又無心なり。又上句を静底、下句を動的の意にいう。閑不徹は閑徹底、太忙生の生は助辞なり」ということです。

 ただ、禅語というのは受け取る側によって、色々な意味に解される場合があります。この「雲在嶺頭閑不徹、水流澗下太忙生」の偈文も、「動静不二」、「静中動」、あるいは「忙中閑あり」といった心境を表すものと解することが多いですが、私は、老いという中で理解したいのです。間違いとの指摘を受けるかもしれませんが、それでもいいのです。現在の父の姿は「閑不徹」そのものだからです。

 私を含め、これから老いてゆく者にとって、「閑」は、厄介なものと見れば、大いなる敵です。しかし、若い頃と同じような「忙」を求めようとせず、「閑」を楽しむことができるようになれば、「閑」は良き友となります。中国の説話に、道に迷った木こりが、囲碁の一手に何百年もかけて楽しんでいる仙人に出会ったという話がありますが、老いは、悠々たる時間を遊ぶものなのでしょう。老いのただ中にある父が、そのようなことを、身をもって教えてくれているような気がするのです。