◆ 中川家 ◆
中川浄益の金物
三千家御用達の【金物師】として、代々三千家御家元の【金工】の製作などを行う【職家】。

【中川家】の先祖は《越後高田佐味郷》に住み、「甲冑」、「鎧」などを制作。

茶道具を初めて制作した【中川家初代/中川与十郎】は【紹益】を名乗ったが、その後の【中川家】では【中川家二代/中川浄益】以降の当主は【浄益】という名を継いでいる。

【中川家】は【錺師(かざりし)】とも言われ、【金工】の精巧な茶道具を得意とし、優れた【金工】の技術を継承。

その作品は「鉄」を鍛造して制作する【槌物(うちもの)】と鋳造による【鋳物(いもの)】が主である。



中川家初代 中川 紹益 ~なかがわ・じょうえき~
永禄二年(1559年) ― 元和八年(1622年) / 六十四歳

[諱]【紹高】 [名]【紹益】 [通称]【与十郎】 [号]【道銅紹益】

事績
先祖と同じく武具を製作するが、京都に出て「火箸」・「環」など茶道具の【銅道具】を製作した。
『北野大茶会』に際し『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の依頼・指導により【薬鑵(やかん)】を作ったのを契機に以後、代々【浄益】を名乗り、現在の家業である茶道具作りを始めたとされる。
またその時に製作された【薬鑵】が後世にわたり「茶の湯」に使用される【水次薬鑵】の基本形とされ今日に伝わる【利休形腰黒薬鑵】である。
享年 元和八年(1622年)没。享年 六十四歳。

中川家二代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
文禄二年(1593年) ― 寛文十年(1670年) / 七十八歳

[諱]【重高】 [名]【浄益】 [通称]【太兵衛】

事績
『中川家初代/中川紹益』に続き、【銅器】のものを作っており寛永年間(1624年-1643年)に千家出入の職方となり『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』の指図を受けたとある。
また『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』より、『豪商/佐野(灰屋)紹益』と名前が紛らわしいことから【紹益】から【浄益】に改めるよう申しつけがあり、これ以降は代々【浄益】を名乗ることとなる。
【中川家二代/中川浄益】の妻は『金森宗和(1584-1657)』公の娘であり『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』はもとより『金森宗和(1584-1657)』公の計らいにより道具製作に起用されたと推測できる。
また『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の御好道具を製作し賞賛を得たということも伝えられている。

享年 寛文十年(1670年)没。享年七十八歳。

中川家三代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
正保三年(1646年) ― 享保三年(1718年) / 七十三歳

[諱]【重房】  [名]【浄益】 [通称]【長十郎】【太兵衛】

事績
【中川家】の歴代の中でも【鋳物】の名人として知られる。
茶道具を数多く作ったが中でも当時は技術的にも困難で模作することも不可能とされていた古来南蛮より渡来していた【砂張】の製法を発見し、多くの名品を遺す。

享年 享保三年(1718年)没。享年七十三歳。

中川家四代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~ [号] 友寿
万治元年(1658年) ― 宝暦十一年(1761年) / 百三歳

[諱]【重忠】 [名]【浄益】【源吉】 [通称]【吉右衛門】 [号]【友寿】

事績
宝暦八年(1758年)『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』が『宗旦百年忌』の茶会を百回連続して行った記録があり、その中に職方の名前が十名 ・『塗師/宗哲』
・『楽吉左衛門』
・『竹屋/元斎』
・『釜師/淨元』
・『指物師/利斎』
・『柄杓師/正玄』
・『袋師/友湖』
・『大工/善兵衛』
・『表具師/吉兵衛』
と記載し最後に【鋳師/浄益】とある。

『中川家系図』から推測すると宝暦八年(1758年)といえば【中川家四代/中川浄益】が没したのが宝暦十一年(1761年)であることから出席時には【百歳】を超えられていることになる。(詳細は不明)
また【鋳師】と表記されており『中川家四代/中川浄益』や『中川家五代/中川浄益』の作には【鋳造】の作品が多かったと推測される。
また【鎚起】や【板金】の作品のは『中川家七代/中川浄益』からと考えられ作風は【鋳物】で精巧優雅な作風であったと伝えられている。
晩年の折『菊亭(今出川家)』公より【友寿】の号を賜り、以来これを印刻している。

息子
【中川家四代/中川浄益】は三人の息子に恵まれ、息子達と共に【中川家】の家業の隆盛に励む。
二人の息子、長男『中川源介友忠(貞亨二年(1685年)―宝暦九年(1759年9月4日))』と弟『中川治兵衛友輔(生没年未詳)』も優れた銅工で父である【中川家四代/中川浄益】を助ける。
長男『中川源介友忠(貞亨二年(1685年)-宝暦九年(1759年9月4日))』は延享年間(1744年-1747年)に『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』より「渦紋細水指」を二十本写し鋳るように申しつけられたことがある。
しかし【中川家四代/中川浄益】が長寿であったため息子二人とも【中川家】の家督を継ぐことなく亡くなっている。

享年 宝暦十一年(1761年)没。享年百三歳。
『中川家七代/中川浄益』が書き残した『中川家系図』には享年百余年と記されている。

中川家五代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
享保九年(1724年) ― 寛政三年(1791年) / 六十八歳
出自 『[父]中川家四代/中川浄益』の三男

[諱]【頼重】 [名]【浄益】【源吉】 [通称]【吉右衛門】

事績
二人の兄と同様に【鋳物】を得意とし『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』に重用され御好道具を製作。
【中川家五代/中川浄益】は通称【吉右衛門】と称し、以後代々【吉右衛門】と名乗る。
また『[父]中川家四代/中川浄益』までにはみられなかった「箱書」も【中川家五代/中川浄益】は「箱書」に【吉右衛門】の御判を捺している。
晩年の天明八年(1788年)一月に『天明の大火』に罹災し過去帳一冊以外のすべての家伝・家財を消失。

享年 寛政三年(1791年)没。享年六十八歳。

中川家六代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
明和三年(1766年) ― 天保四年(1833年) / 六十八歳
出自 『[父]中川家五代/中川浄益』の息子

[諱]【頼方】 [名]【浄益】 [通称]【吉右衛門】 [茶名]【宗清】

事績
【中川家六代/中川浄益】が二十三歳の折【中川家】も他家同様に天明八年(1788年)一月の『天明の大火』に罹災し、家財道具をはじめ古文書類も史料もすべて焼失してしまうが幸いなことに先祖の作品や家元の箱書は残ることとなる。
その三年後の寛政三年(1791年)『[父]中川家五代/中川浄益』他界のため【中川家】の家督を継承し【中川家六代/中川浄益】を襲名。
【中川家六代/中川浄益】の箱書の印判は『中川家四代/中川浄益』が『菊亭(今出川家)』公より拝領した【友寿】を使用。
また詳しい理由は不明であるが【中川家六代/中川浄益】は『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』のお叱りを受け、表千家出入りを禁じられる。
その後は裏千家のみの御用を務めるが『表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775-1825)』の代になり許される。
『中川家』歴代中、随一の茶人であり、【宗清】の茶名を持っている。

享年 天保四年(1833年)没。享年六十八歳。

中川家七代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
寛政八年(1796年) ― 安政六年(1859年) / 六十四歳
出自 『飛来一閑』の三女『[妻]九満()』の夫

[諱]【頼實】 [名]【浄益】 [通称]【吉右衛門】

事績
【中川家】も他家同様に天明八年(1788年)一月の『天明の大火』に罹災し、家財道具をはじめ古文書類も史料もすべて焼失。
その後【中川家七代/中川浄益】が改めて書き残した【中川家系図】が現在に伝わっており巻頭には【中川家七代/中川浄益】の自筆にて【これを疑うべからず】と記されている。
【中川家七代/中川浄益】からは作品や箱書もはっきりと残っており、書付には【いがみ】の特徴があり【いがみ浄益】といわれていたという。
また印判も【頼實】と晩年の【竹蔭七代】の二種がある。
その他にも【中川家七代/中川浄益】は【砂張打物】が得意で唐物をしのぐ名人とされ【砂張打物の名人】とも称されていた。
【中川家七代/中川浄益】は天保五年(1834年)に初代の墓を作り石塔を新調。

備考
妻は『飛来一閑』の三女『九満』。

享年 安政六年(1859年) 没。享年六十四歳。

中川家八代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
文政十三年(1830年) ― 明治十年(1877年) / 四十八歳
出自  『三井家/手代(番頭)』の『麻田佐左衛門()』の息子
        『[義父]中川家七代/中川浄益』の婿養子

[諱]【紹興】【頼實】 [名]【浄益】【幾三郎】 [通称]【吉右衛門】

事績
嘉永元年(1848年)『[義父]中川家七代/中川浄益』の娘『戸代()』と結婚し【中川家】に迎え入れられる。
幕末~明治の転換期に先を見通し、「京都の博覧会」の開催に尽力。
明治五年(1872年)の「京都博覧会」や明治六年(1873年)「ウィーン万国博」に出品。
また【中川家八代/中川浄益】は【株式会社 浄益社】を設立、海外に向け【金銅器】や京都の美術工芸品の紹介や【貿易】などを行うが、借金を抱え様々な事情により失脚。

享年 明治十年(1877年)没。享年四十八歳。

中川家九代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
嘉永二年(1849年) ― 明治四十四年(1911年) / 六十三歳
出自 『[父]中川家八代/中川浄益』の息子

[諱]【紹芳】 [名]【浄益】 [通称]【益之助】

事績
明治初期の「鹿鳴館時代」に遭遇しており茶道衰退期に【中川家】の家督を相続。
しかし『[父]中川家八代/中川浄益』が残した借金を生涯背負うことになり生涯苦労することとなる。
当時は『煎茶』が盛んな時期であり【煎茶道具】や【南鐐】の作品を多く作製。
『[父]中川家八代/中川浄益』の縁により『三井家』などから援助を受けるが、家業の建て直しがうまくいかず逆境の中、自身は【アルコール依存症】となる。
職人としては一流であったが、伝統工芸に理解のない時代だったため世間からは認められず没す事となる。

享年 明治四十四年(1911年)没。享年六十三歳。

中川家十代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
明治十三年(1880年) ― 昭和十五年(1940年) / 六十一歳
出自 『[父]中川家九代/中川浄益』の子

[諱]【紹心】 [名]【浄益】 [通称]【淳三郎】

事績
二十歳前後の「日露戦争」の後、《満州》へ赴き【酒屋】を開業。
当初『[父]中川家九代/中川浄益』は、息子の【中川家十代/中川浄益】は「家業を継がない」ものと思い、仕事をしていた『中村吉二郎』を長女の養子に迎え入れる。
しかし父『[父]中川家九代/中川浄益』が病に倒れ、ある人物が【中川家十代/中川浄益】を日本へ連れて帰り、『[父]中川家九代/中川浄益』の他界に伴い【中川家】の家督を継承。
早くから大阪の道具商『中村善九郎()』のもとに奉公へ行き【商売】を習う。
また先代の『[父]中川家九代/中川浄益』より続く『三井家』との関わりも継続し『三井家十代/三井高棟(1857-1948)』のもとへ通う。
「第一次世界大戦」勃発による軍需景気に乗り負債を完済すると共に【中川家】再建の基盤を作る。
明治中期頃には外国人向けに「寿老」や「布袋」の「置物」、「袖炉(袖香炉)」、「火鉢」なども作製。
また京都『祇園祭』の山鉾「岩戸山」内部にある四本柱のうち二本を製作。

享年 昭和十五年(1940年)没。享年六十一歳。

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中川家十一代 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~
大正九年(1920年) ― 平成二十年(2008年) / 八十八歳
出自 『[父]中川家十一代/中川浄益』の長男

[ペンネーム]【中川登志】
[法名]【紹真】

師事 [茶]『生形貴一(1880-1966)』

事績
昭和十一年(1936年)「京都市立第二工業学校(現・伏見工業高校)」を卒業。
昭和十五年(1940年)二十歳の時に父『[父]中川家十一代/中川浄益』死去に伴い【中川家】の家督を継承。
しかし同年『第二次世界大戦』の折、七月七日「七・七禁令(奢侈禁止令)」によって金属材料は不足し抱えていた職人も退職し不遇の時代を経験する。
翌昭和十六年(1941年)より家元へ出仕。
戦後、『生形貴一(1880-1966)』老のもとへ「茶の湯」を習いに行く。
昭和二十五年(1950年)頃、『生形貴一(1880-1966)』老の計らいでご子息の『生形貴道(1914-?)』に連れられ得度。
晩年【作品デザインと総合プロデュースが自分の仕事である】と語っている。
またカメラが趣味で【中川登志】というペンネームで「二科展写真部門 特選」。

享年 平成二十年(2008年)没。享年八十八歳。


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中川家十二代 [当代(現在空席)] 中川 浄益 ~なかがわ・じょうえき~