前回、子どもの補聴器に対する向き合い方の悩みを書かせていただきました。
あのあと、3日ほど気をつけて補聴器を付けるよう意識しました。
何となく違和感を感じながら…
でもやっぱり聴者からみたら補聴器をつけると聞こえてるんじゃないか?とか、せっかく補聴器付けてるから声や音を聞かせた方がいいんじゃないか?とか多分無意識に思ってしまって、手話が自然と減っていたようです。
娘が突然お姉ちゃんを引っ掻きました。
兄弟喧嘩の時でも引っ掻いたりするんですが、前触れがあったかもしれないけど、私が気づいてないだけかもしれないけど…
何で怒ってるの?って聞いてもお姉ちゃんが〜って言う以外何も答えないから、お姉ちゃんが叩いたの?と聞いてみました。
すると首を振って違うと言いました。
その時、私とお姉ちゃんとで声だけで話してたから、お姉ちゃんとママが声だけで話してたのが分からないから怒ったの?と聞いてみました。
するとうんって言ったんです。
ほんとにそうなのか確信はもてませんが、3回くらい言い方を変えて手話で言ってみたら、全部頷きました。
本当にそう思ってたのかもしれません。
多分今まで補聴器をしてないときは、私とお姉ちゃんとの会話は気づいてなかったんだと思います。補聴器をしたからこそ、会話に気づけたのはいい事だったかもしれません。
けど、自分が分からない会話に気づけるより、周りが手話でわかる会話を心がける方が大切じゃないでしょうか。
ろう学校の先生は音に対する反応が良く、気付いて振り向くとか言うけど、だから何?って感じがしてきました。
音に気づくメリットより、目を耳の代わりに使える方がいいんじゃないのかと。
残存聴力も目も全てを使って日本語を獲得しないといけないって言うけど、それは目だけを使って日本語の獲得をさせられないというろう学校の出来ていないところを子供の努力が足りないと言う事になすりつけているのではないかと思います。
だって、デフファミリーの子は、手話で年相応に書記日本語が身に付いているんだから。
娘は生まれた時から補聴器はつけたがりませんでした。もちろん、つけている時間もありました。けどいつの間にか外している。
これって、娘は既に聾として生きると言う選択をしているんじゃないのかと思うんです。
今も付けるのは嫌がります。
担任の先生は、付けるかつかないか選択させるのは自分が聾だというアイデンティティを持ったあとだから、今は付けさせる事が親の役目だと言います。
けど、今まで5年間生きてきた中で娘はつけないと言う選択をずっとしてきたと思うと、やはり選択を既にしているんだと思いました。
やはり、これからも娘には付けない選択をさせてあげたい。
付けたいと言った時はもちろん付けさせるし、娘の判断に任せたいと思います。
この出来事は私にとって大きかったと思います。