$Pure日記バーニス・ビショップ


ミドリキラルース・ケエリコラニ王女

ルース・ケエリコラニ王女は
オアフ島プフカイナで生まれました
ルースはカメハメハ4世、
カメハメハ5世、
カママル王女(2世の妻)
との母違いの姉妹で
当時、最もお金持ちの女性と
言われていましたが
その人生は悲しみに満ちた
ものだったそうです

母親はルースを出産する時に
亡くなり、その後ルースの
保護者も彼女が13歳の時に他界、
ルースの最初の夫も28歳という
若さで他界してしまいます

2人の子供も、その後養子に迎えた
カラカウア王の弟も若くして
この世を去ってしまいます

ルースは再婚したものの
不幸は続きました
2番目の夫との間に出来た子供も
小さい頃に他界し
1873年、今度は自宅が全焼
同じ場所に2年かけて豪華な家を
建てましたが新築祝いの翌日
体調を崩しカイルアコナで
養生しちました

悲劇続きのルース王女は1883年
曾祖父のカメハメハ1世が
亡くなった場所のすぐ近くで
亡くなったそうです

彼女の莫大な遺産を継いだのが
バーニス・パウアヒ王女です


ミドリキラチャールズ・リード・ビショプ

チャールズ・ビショップは
1822年1月ニューヨーク州の
グレンズ フォールズの町で
生まれました

$Pure日記

当時のオレゴンに新天地を求め
船で南米を廻り太平洋へ出て
1846年にホノルルに上陸し
その時カメハメハ1世の
曾孫にあたるバニース パウアヒと
ロイヤルスクールで知り合いました

その四年後の1850年
ロイヤル・スクールのパーラーで
二人は結婚式を挙げましたが
両親はのちに5世として王となる
ロトとの結婚を望み式には
出席しませんでした


ビショップ氏は王国の国籍を取得し
ハワイで初の銀行を創り
上院議員となり王国の経済発展と
文化の保持に寄与する事となります

ビショップが創設した銀行は
ファーストハワイアン銀行に
その名を変えハワイ州内有数の
金融機関として発展を遂げて
いるそうです

$Pure日記

当時、最初の銀行として
使用された二階建ての建物は
ホノルルのダウンタウン
マーチャント通りに
今でも現存しているそうです

1855年に亡くなったバニースの
父パーキーは
現在ファーストハワイアン銀行本店ビルが
建つ山側に広大な敷地と
ハレアカラーと呼ばれる
西欧風二階建ての邸宅を残し
ビショップ夫妻はそこに住み
王朝時代の文化的且つ
社会的な活動が多く行われた
場所にもなりました

$Pure日記

1884年10月バニースは52歳で
癌で亡くなり
その一年前に用意された
パウアヒの遺言の十三条には

「ハワイに寄宿舎を伴う
 男女の為の二校を創立し運営し
 それをカメハメハ スクールと
 名付けるように」

と書かれていて妻の遺志を守り
1887年に現在ビショップ博物館がある地に
ハワイアンの子弟の為の
学校として「カメハメハ校」を
開校したそうです

その二年後、学校の敷地内に
博物館が建てられましたが
建設の目的の一つには
ハワイアンの人々の深刻な
人口減少問題があったようです

バニースが生まれた1831年の
ハワイアンの推定人口は
十二万四千人だったそうですが
亡くなった1884年には
四万四千人まで減少して
しまいました

人口減少には様々な理由が
考えらるみたいですが
最大の理由として
西欧人の来島に伴い
それまで外界から閉ざされていた
土地に島外から入ってきた
病気との闘いだったようです

バニースは自国民の
急激な人口減少と
他国民の流入と共に
はいってくる西欧文化の中で
ハワイの文化と歴史を
残すために腐心して
いたそうです

ハワイアンの生徒達の教育と
研修を一つの目的に
校内に建てられた博物館だったので
「カメハメハ博物館」と
名付ける案もあったそうですけど
カメハメハ四世の妻であった
エマ女王の推奨で、
ビショップ夫妻の意思と情熱を尊重し
王妃の名を採り
“The Bernice Pauahi Bishop Museum”
(バーニス・パウアヒ・ビショップ・ミュージアム)
と称されることになったそうです

$Pure日記
(ロイヤルハワイアンショッピングセンター内に
 あるバーニスの銅像)

ビショップ氏は1915年6月に
サンフランシスコで
この世を去りました

$Pure日記
(1876年サンフランシスコでの夫妻)

バニース パウアヒ王妃の亡骸は
ホノルルのマウナアラの王廟に
カメハメハ系の王族と
同じ墓に安置されていますが
ビショップ氏は
西欧人ながら王家の一員として
その傍らにお墓があります

$Pure日記
(左がビショップのお墓)





$Pure日記Aloha Po‘


ペタボタン
 ↓ 
$Pure日記