前回書いた、英語は英語でインプットしたほうがあとあと得する、って話。

英語で使う知識を日本語でインプットすることがいかに迂遠か、ってコトの例が意外なトコにあったのを思い出した。


「匂いをかがれるかぐや姫」って本。日本の昔話を自動翻訳ソフトでいったん英語にしてから再度日本語に訳した結果を本にしたもので、これだけで本になるくらいだから相当トンチンカンな翻訳結果だったはず。(細かく覚えてないけど、確か桃太郎の「ドンブラコ」が「ブラコ大将」みたいな訳だったんじゃなかったかな。)


これは、まず日本語を英語にする時点で不正確な理解(誤訳)が生じて、更に日本語に戻すときに再度同様のズレが生じることでこんな誤訳になるわけだ。


でもって、英語を日本語でインプットするとこれと同様の「ズレ」が生じ得るってコトになる。
そんな馬鹿な、って思うかもしれないけど、例えば"miss"って単語。


英和辞書で引くと「①見失う②いないことを寂しく思う③乗り物等に乗り遅れる・・・」って結構な数の意味が出てくる。こんなのを日本語でインプットしてるから、いざ電車に乗り遅れたことを伝えたいときに"I couldn't catch the train."なんて言っちゃう。
"I missed the train."でいいのに。


これを英英辞書で引くと"①fail to hit, catch... ②feel unhappy at the absence or loss of"ってな感じ。②のイメージさえあれば"I miss you."も"Missing person"も自然に出てくるってワケ。


ついつい英英辞書って敬遠しちゃうけど、結果的には楽させてもらえると思うなー。

自分の経験上、語学を習得する上でひとつ重要な能力があると思う。


それは、「ある言語をその言語のまま理解する能力」とでも言えばいいのかな(ひょっとしたら専門用語なんかがあるのかもしれないけど)。これこそ、語学力を根っこで支える語学センスの本質なんじゃないかとも思う。


何を言ってるかというと、"This is a pen."と「これはペンです。」はイコールじゃないし、そもそも第2言語をマスターするうえで、第1言語との行き来は必須じゃない(あるいは却って混乱の原因になる)んじゃないかってコト。
学校で習う英語で英文和訳/和文英訳を叩き込まれちゃうと違和感があるかもしれないけど、私はこの考え方を実践して、それなりに英語を英語のまま理解できるようになった気がする。


理屈はこう。
・日本語で考えることに困る日本人はまずいない。
・英語で考えることに困るアメリカ人もまずいない。
→アメリカの子供が英語を習得する過程を同じように踏襲すれば、英語はそのまま英語としてみにつくんじゃなかろうか?


で、16-17才のころから英語を英語として身につけるべく実践し始めた。
・できる限りでいいから、L/R、B/V、S/SH/THあたりの発音を意識的に区別する
・身の回りの名詞から独り言まで、間違ってていいから英語で表してみる
・辞書はできる限り英英辞書を使う
・アメリカのテレビ番組をビデオにとっておいて、英語のまま繰り返し見る
・ネイティブスピーカーと話す機会を持つ


幾つかは過去の記事で書いたけど、要は擬似留学みたいな環境を自分で作り上げたわけだ。
最初は違和感だらけで不安だったけど、あるとき気づいたら簡単な会話なら英語のままやり取りできている自分に気づいて嬉しかった。(アメリカ人で言えば幼稚園児レベルだったと思うけど。)
それ以来、少ーしづつ私の中のアメリカ人は成長し、なんだかんだで高校生くらいにはなってるんじゃないかと思ってる。


ただし、小さい子供に複数の言語を教えるのは個人的にはあまり賛成しない。正確に言うと、第一言語で自己が確立する前に複数の言語を流し込むと、人格形成に悪影響が生じる可能性があると思う。
これは完全に個人的な感想レベルの話なんだけど、その人の思考レベルは第一言語のレベルに依存すると思うし、何より言語のアイデンティティが混乱すると思う。他方で、経験上、高校生くらいから始めても充分第2言語を習得するのに遅くないと思うので、だったらあまり小さいうちから英語教育を始めることにこだわる必要はないんじゃないか、ってコト。
このあたりは、別に根拠があって言ってるわけでもないし、人によって色々考え方のあるところだろうから、上記はあくまで個人的考えであることをも一度念を押しておこう。


でもって何が言いたかったかって言うと、英語を勉強するなら英語のままインプットしちゃうえばいいんじゃないかな?ってコト。
わざわざ日本語を介すと、労力がかかるうえに理解が不正確になっちゃって、得することはあまり無いと思うな。

よく、「日本人は結論を先延ばしにし、アメリカ人はすぐに結論を決めたがる」と言われる。
ここには、それぞれの母国語が深くかかわっている気がする。


日本語は、「てにをは」があることによって語順を変えても概ね文意が伝わる言語だけど、述語だけは必ず最後に来るのがルールだ。更には、最後に「ない」をつけることによって、それまでの文意を全部ひっくり返すことだってできる。


これに対して、英語は語順によって各語の関係を決定するので、述語は必ず主語の直後と決められている。
最初の数語で文意を示して、あとはそれを補う説明が必要に応じてついてくるって感じだ。
この「必要に応じて」ってのが重要で、裏を返せば、必要がなければ省略できるってコトになる。


例を挙げよう。
「ケンが俺の母のことを○○呼ばわりするもんだから、俺はこのナイフでヤツの喉を切りつけて殺したんだ。」
何となく、取調室で老練の刑事の前でひとり言のように自白する犯人の姿が思い浮かぶ。
"I killed Ken with this knife slashing his throat, because he called my mom a b***h!"
こっちだと最初の3語で要旨が伝わる。映画のワンシーンなら、しゃべり終わるのを待つまでもなく逮捕やケンの遺族による復讐なんて展開もありうる。


慣れると、この違いってのは想像以上に大きい。
会話では、相手の表情を見ながら詳細な説明を省略できるし、新聞や雑誌なら、最初の数語で読むべきかどうかを判断できることだってある。とっても合理的だ。
言われてみれば、(アメリカの)住所表記もメールアドレスも、個人名が最初で国名は最後。
つまり、英語で育った人にとっては、結論先出しで考えるのが当たり前の習慣ってワケだ。


別にこれはどっちがいい/悪いってものでもないと思う。
言葉が紡がれるたびに結論が揺れ動くのを焦らずに受け止める日本語のやり取りには、奥ゆかしさやゆとりといった日本独特の間、文化につながるものがある気がする。
ただ、ことビジネスのような合理性の求められる場面では、無駄の少ない英語のコミュニケーションのほうが有利なのかなとも思う。