スティーブジョブスに関わる私のエピソード
こんにちは。
まもなく、午前中のレッスンも終了です。
さて、日本では、Steve Jobsの辞任より島田紳助の引退の方が話題になっていますが、Steve Jobsに関わったエピソードがありますので、ご披露したいと思います。
1997年にギル・アメリオに変わって、Steve Jobsがアップルのトップに就任しました。(CEO就任は正式は2000年)ギル・アメリオは、低迷を続けるアップルの再建を頼まれたが、奇しくも買収したNext社のSteve Jobsにアップルを追い出されることになりました。
当時、私はアキアというPCベンチャーにおりました。IT系の方がいらっしゃれば、ご記憶にある方がおられるかもしれません。
アキアでは、「Tornado」という高性能ノートブックPCは、Windows95発売と同時にリリースし、当時100万円するものを60万円で発売し、よいローンチができました。
また、今ではどのPCメーカーでも出している小型のデスクストップPC「MicroBook」と液晶の組み合わせは世界初で、日経最優秀製品賞を受賞しました。
1996年からアップル互換機(クローン)を販売する計画を立て、1997年1月にMicroBook Power を発売しました。
当時、アメリカでは互換機メーカーにPower PCがあり、最初はアスキーの西さんと提携を申し出ていたがのですが、残念ながら交渉がまとまりませんでした。
そこで、OSをサブライセンスしていた、IBMと交渉し、MAC OSのライセンスを取得しました。最初の会議は、台北でIBMのライセンス担当幹部と行い、最後の契約はボストンで行いました。
そして、マザーボード、筐体は、台湾の互換機を製造していたUMAX社に依頼し、販売ができるようになりました。
当時、ギル・アメリオがアップルのCEOでした。96年の秋に日本のPC Expoで来日した時に、会場で彼を見かけ、直談判をしました。是非、我々にノートPCの互換機を発売させてほしいと頼んでみたのです。
そうすると、彼は、「もう少し我々に儲けさせてくれないか」と言われたことを、良く覚えています。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、Steve Jobsがアップルに戻り、次のOSをサードパーティに提供しないと発表をしました。
これにより、アキアのアップル互換機は、急激に販売が落ち込み、在庫処分をしなくてはならない状況に追いやられました。そして、当時で10億円の損失をしました。ベンチャー企業にとって、巨額の損失は、ボディブローではなく、KOパンチになりました。
この時の一撃は、大きなものでしたが、その後の私を成長させてくれた一撃でもありました。Steve Jobsの2番目の話にもありましたように、失うものもありましたが、得られたものは、私にとっては、失ったより大きなものでした。
アキアをカシオにM&Aするまでに2年。その間のM&A交渉、銀行とのやりとり、英文資料作成、在庫処分などなど、今までに経験のないことを学び、困った時に助けてくれる人、離れる人、人間関係も大いに学ぶことができました。
そのおかげで、人生最後の仕事に社会起業事業を始め、社会貢献をしながら仕事をすることができるようになりました。これも、あの時、アキアで、苦しい時を経験することができたからです。
調べてみて、初めて気がつきましたが、冒頭の島田紳助(1956.3)、Steve Jobs(1955.2.24)、私が1955.10.29と同年代です。共に引退してもいい時期なのですね。
私の周りでも、引退をしている友人がいます。そういえば、韓国の親友もすでに引退(会長職ですが)しています。韓国では、50歳くらいで、引退をすると言っていました。そして、社会貢献をするのが、引退後の仕事になると。もちろん、富裕層の場合ですので、誤解なく。
*Tornado(竜巻)は、当時、野茂選手がトルネード投法でアメリカで活躍をしていたので、それから名づけました。
*MicroBookは、大きな筐体のデスクトップPCばかりで、日本のオフィス環境にあう小型のまさに、机の上に置けるようなものを作りたいとのアイディアから名づけました。ちなみに12.1”TFTパネルの液晶モニターは、128000円でした。
まもなく、午前中のレッスンも終了です。
さて、日本では、Steve Jobsの辞任より島田紳助の引退の方が話題になっていますが、Steve Jobsに関わったエピソードがありますので、ご披露したいと思います。
1997年にギル・アメリオに変わって、Steve Jobsがアップルのトップに就任しました。(CEO就任は正式は2000年)ギル・アメリオは、低迷を続けるアップルの再建を頼まれたが、奇しくも買収したNext社のSteve Jobsにアップルを追い出されることになりました。
当時、私はアキアというPCベンチャーにおりました。IT系の方がいらっしゃれば、ご記憶にある方がおられるかもしれません。
アキアでは、「Tornado」という高性能ノートブックPCは、Windows95発売と同時にリリースし、当時100万円するものを60万円で発売し、よいローンチができました。
また、今ではどのPCメーカーでも出している小型のデスクストップPC「MicroBook」と液晶の組み合わせは世界初で、日経最優秀製品賞を受賞しました。
1996年からアップル互換機(クローン)を販売する計画を立て、1997年1月にMicroBook Power を発売しました。
当時、アメリカでは互換機メーカーにPower PCがあり、最初はアスキーの西さんと提携を申し出ていたがのですが、残念ながら交渉がまとまりませんでした。
そこで、OSをサブライセンスしていた、IBMと交渉し、MAC OSのライセンスを取得しました。最初の会議は、台北でIBMのライセンス担当幹部と行い、最後の契約はボストンで行いました。
そして、マザーボード、筐体は、台湾の互換機を製造していたUMAX社に依頼し、販売ができるようになりました。
当時、ギル・アメリオがアップルのCEOでした。96年の秋に日本のPC Expoで来日した時に、会場で彼を見かけ、直談判をしました。是非、我々にノートPCの互換機を発売させてほしいと頼んでみたのです。
そうすると、彼は、「もう少し我々に儲けさせてくれないか」と言われたことを、良く覚えています。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、Steve Jobsがアップルに戻り、次のOSをサードパーティに提供しないと発表をしました。
これにより、アキアのアップル互換機は、急激に販売が落ち込み、在庫処分をしなくてはならない状況に追いやられました。そして、当時で10億円の損失をしました。ベンチャー企業にとって、巨額の損失は、ボディブローではなく、KOパンチになりました。
この時の一撃は、大きなものでしたが、その後の私を成長させてくれた一撃でもありました。Steve Jobsの2番目の話にもありましたように、失うものもありましたが、得られたものは、私にとっては、失ったより大きなものでした。
アキアをカシオにM&Aするまでに2年。その間のM&A交渉、銀行とのやりとり、英文資料作成、在庫処分などなど、今までに経験のないことを学び、困った時に助けてくれる人、離れる人、人間関係も大いに学ぶことができました。
そのおかげで、人生最後の仕事に社会起業事業を始め、社会貢献をしながら仕事をすることができるようになりました。これも、あの時、アキアで、苦しい時を経験することができたからです。
調べてみて、初めて気がつきましたが、冒頭の島田紳助(1956.3)、Steve Jobs(1955.2.24)、私が1955.10.29と同年代です。共に引退してもいい時期なのですね。
私の周りでも、引退をしている友人がいます。そういえば、韓国の親友もすでに引退(会長職ですが)しています。韓国では、50歳くらいで、引退をすると言っていました。そして、社会貢献をするのが、引退後の仕事になると。もちろん、富裕層の場合ですので、誤解なく。
*Tornado(竜巻)は、当時、野茂選手がトルネード投法でアメリカで活躍をしていたので、それから名づけました。
*MicroBookは、大きな筐体のデスクトップPCばかりで、日本のオフィス環境にあう小型のまさに、机の上に置けるようなものを作りたいとのアイディアから名づけました。ちなみに12.1”TFTパネルの液晶モニターは、128000円でした。