ここからは、興味のある方だけ読んでください。
傷付ける側の事例が読めると思います。
こんな書きはじめですが、わたしが振り返った中で、少なくとも5人の存在を思い出しました。
といっても、10年前までくらいしか振り返っていないですが、オタクとしてブロガーをやって今年で10年でして、それ以前の家族ブログ時代のことなど誰も興味ないと思います。
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熊本地震のあとに、アメブロで知り合った熊本在住の年上の女の人がいました。
〝ねーやん〟と呼ばせてもらっていました。
わたしは当時、佐藤健さんからくまモンを知り、熊本地震の1ヶ月前に熊本を旅行していました。
仲良くなって、地元の物を送り合ったり、ツイッターのDM機能やLINEも毎日使ってやりとりしていました。
当時のわたしには無理がある付き合い方でした。
わたしはすでに今の職に就いていて、早朝からの勤務もたくさんありました。
でもねーやんは昼からの固定パート勤務で、20時頃仕事が終わって帰宅、やりとりするのは夜でした。わたしは早朝から働いているのに、遅くに帰宅するねーやんを毎晩労い続ける生活。生活時間の違いがわたしには苦痛で、毎日連絡を取り合うという友達付き合いも向いていませんでした。器のちっさい人間です。
ある年の春、熊本旅行に行き、ねーやんが車で阿蘇神社まで連れて行ってくれました。まだ道路が復旧していなくて、迂回ルートで山を越えました。山の上からの景色を今でも覚えています。
他にも何ヶ所か連れて行ってくれました。
長崎次郎書店も行きましたよ。わかる人にはわかる場所。
しかし、わたしはこの熊本旅行のブログを途中までしか書けませんでした。匠海くんだけじゃなくDISH//も推すようになり、わたしのブログ内容が変わって行ったからです。
わたしが熊本旅行を最後まで書かなかったことはずっとねーやんを悲しませていました。
何年か経ち連絡をとる機会があったとき、わたしはねーやんの息子さんの学年を訊いてしまいました。わたしの中では中学卒業までを一緒に過ごし、そのあとの年月がよくわからなくなってしまっていました。膨大な量の仕事をしていたから、、というのがわたしの感覚で、ねーやんと過ごしたのが何年前なのか本当によくわからなくなっていたという最低の結末でした。息子さんの年齢がわからなくなったという傷付け方でした。
本当に最低です。熊本城の完成を一緒に見る未来を描いていたのに。
昨年の8月、熊本に行ってきました。
一人旅でした。ねーやんには許してもらえなくても、わたしは熊本が第二の故郷です。
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あの、、
これ1人目でして。
思い当たる傷付け歴がまだ4人分続くのですが。
大丈夫かなこれ。
他の方の愛称は出さないです。