10年前、自分の生活は30点くらいだと思っていた。当時の理想の生活は100点

 

それから10年経ち、今の生活は300点くらい。

 

10年前には「夢のまた夢だ」と思っていたことが全て実現していて、その遥か先を行っている。

 

しかし今は理想の生活が1000点に上がってしまったので、実は10年前と同じ不足感を抱えている。

 

10年前には、英語や中国語を話せて、海外に住んで、外国人と外国語で仕事をして、外国人の友達をたくさん作って、旅行もたくさんして、素敵な女性とデートに行けたら死んでもいいくらいに思っていた。

 

それらの願望は全部実現した。

 

しかし、いざ外国語を話せてみると、それが空気のようになってしまって「だから何?」という感じになってしまった。

 

確かに面白いカルチャーショックも色々あるけど、外国人も「仕事行きたくねー」とか「お金欲しー」と悩んでいるのは日本人と同じで、話せば話すほど人間って世界中どこへ行っても大して変わらないな、それなら日本語で日本人と話してるだけでもイイじゃんとも思うようになった。

 

そうすると、外国人に外国語を話して通じた時に感じる喜びが、空気を吸ったり水を飲んだりする時の喜びと同じくらいにしか感じられなくなってくる。

 

願望が実現するってこういうことなんだろうな。

 

願望が実現して暫くすると、その願望が水や空気と同じくらい当たり前の存在になるから、その願望を通じて「願望を実現して幸せを味わう」という快感を得られなくなる。

 

「願望を実現して幸せになりたい」と願っていると、願望を達成すればするほど願望がどんどん高望みになるし、全ての願望を実現してしまったら願望実現する喜びを味わえなくなってしまうという不安が出てくる。

 

女神様みたいに素敵だと思った彼女も、毎日一緒にいたら空気と同じ存在になってしまう。

 

逆に言うと、願望実現した後にも幸せを感じるためには、今既にあることに幸せを感じることが必要なのかなと思った。

 

水を飲んで美味しいと思う、雨風をしのげる家で寝られることを安心だと思うなど、当たり前のことに幸せを感じられるのであれば、願望が実現して当たり前になった後も幸せが続いていく。

 

結局、人生には「水を飲んで幸せ」と感じる以上の幸せはないのかも知れない。

 

それ以上の幸せを求めるためには「願望が叶っていない」という不足の状態が必要になる。

 

今ココの充足を感じるってそういうことかな。