拝啓 様へ

 

お元気ですか?僕はなんとか元気でやっています。

僕は今、函館に居てこの手紙を書いています。

誰かに宛てて手紙を書くなんて十数年ぶりで、とても新鮮で、恥ずかしさもありますが、郷愁を瞼の裏に浮かべるような懐かしさがあります。

十年後には紙に手紙を書くという文化はなくなるのでしょうか。

でもそれは、書かれるのはきっと真夜中で、言いたいことばかりが先走り、

文にまとまりがなく、結局何を伝えたいのか要領を得ないものなのは変わりないでしょう。

けれど、誰かに何かを伝えたいという切実すぎる想いだけは、手紙を送る文化があった時代よりも真っ直ぐで純粋であると思います。

 

僕は今、函館の大沼湖のほとりで写真を撮っています。

この湖は、冬になると、湖面に氷が張り、空の青を鏡のように映し出します。

その刹那、地上も空も目に見えるもの全てが青空になったような神秘的な感覚が訪れます。それはまるで、君のお気に入りの万華鏡のような視界に入るもの全てが美しい世界です。

僕はそこで、別の異世界の音に耳を澄ませるように、五感を研ぎ澄ませます。

聞こえてくるのは、全てを等価値にするような風の音と幸福を祈るような小鳥のさえずりだけです。

この世界にはこんなにも美しいものがあって、それを伝える相手が居る。それだけで、僕の心は何よりも温かく、幸せな気持ちになれます。

目の前に広がるこの光景を何度かカメラで納めようとしましたが、君ほど上手に撮れません。

君にカメラを教えてもらえば良かったと今になって思います。

 

僕は忘れっぽいので、その美しい景色をいくら胸に刻んでも、すぐに忘れてしまいます。

でも、景色を見た時やカメラに納めようとした時の感情や、その時何を想っていたのかということだけはいつまでも鮮明に覚えていて、その度に僕は記憶の不思議に思いをはせます。

この手紙も、書いた内容はいつかは忘れてしまうでしょう。でも、それを書いている時のこの気持ちだけは、正直で、大切で、いつまでも忘れないでしょう。

 

誰かに見せるための字を久しぶりに書きました。こんなにもミミズみたいになるんですね。びっくりです。紙の余白に怯えているミミズような字でも、真剣な気持ちは一つも変わりありません。ミミズが苦手であればアニサキスとでも思って下さい。どうでもいいですが、あれは地獄の苦しみです。

 

君がカメラを好きだったことを今になって思い出します。宇宙の全てを詰め込んだような丸い文鎮の横に置かれた富士フィルムのカメラを思い出します。

誰もが、カメラを持ってシャッターさえ切れば、目の前の一秒の景色を一秒として切り取ることができる。子供でもおじいさんでも、アフリカの小民族でも、プロのカメラマンでも、その点においては平等であることが、カメラの懐の深さと奥深さなのだと、僕は思います。君はどう思いますか?

写真のような言葉を使い、何かに形を与え、言葉のような写真を撮り、何かに意味を与える、そんな風にできたらどんなに素敵だろうかと思います。

 

僕らは過去のことを思い出す時には、必ず一秒以上の時間が掛かってしまいます。それを文章にしたり話したりするとさらに多くの時間と負担が掛かるでしょう。未来に思いをはせることも同様です。つまり、今の一秒を同じ一秒として感じる事が出来るのは、今のこの瞬間しかないということです。過去の一秒は今の一秒と等価値ではなく、またそれは美化されたり、いつか忘れてしまいます。だからこそ、一秒を同じ一秒として感じられる今が、これほど尊いのではないでしょうか。

その意味で、カメラは、過去の一秒を同じ一秒として切り取ることができる魔法のような代物なのでしょう。そう思いながら、ファインダーを覗き、シャッターを切ると、もう二度と出会えないとっておきの宝物を、カメラの中に閉じ込めたような気持ちになります。

でも同時に、もう二度と見ることのできない風景を思うと、取り返しのつかないことをしてしまったような後ろめたさも感じます。僕がファインダー越しに見ている間の一秒の景色を、僕の生身の瞳はもう二度と見ることができません。ファインダー越しに君を見ている時間、君から目をそらしている時間、その時間の君の姿を僕は二度と認識できないのです。僕には認識できない景色や君の姿が必ず存在してしまう。僕はそれを哀しく思います。君はどう考えますか?

 

もっと君に何かについてどう考えるかについて聞いておけば良かったと後悔しています。

何気ない君の話には、時にハッとさせられ、僕が見失っていた大切な何かに気付かせれることがあります。それは、僕がいくら頭ごなしに考えても、到底行き着くことのない、この世界の真理のような、芯を食った純粋な言葉でした。君の言葉はいつだって真剣でした。言葉に対して素直で、装飾や作為のない純白の陶器のような儚い言葉でした。僕は何よりもその真剣な言葉が好きです。ふざけていても、真剣にふざけている言葉が好きでした。「聞いてー?」から始まる、時に要領を得ない君の話が大好きでした。小説や映画で、君のような真剣な言葉に出会うと嬉しくなります。いい加減な言葉ばかりに触れていたら、自分までいい加減な人間になるような気がするので。

 

君の日々が安らかであることを願い続けます。

辛い事があったとしても、それと釣り合うような、それを越えるような喜びに出会えることを願ってます。

僕には僕の日々があり、君には君の日々があります。君には君だけの物語があり、僕には僕にしか生きられない物語があります。

 

でも、ほんの一瞬でもあの時あの場所で、君と僕の物語は確かに重なりました。その重なった日々を、その物語を、僕は忘れません

写真に残っていなくとも、思い出すのにどれだけ時間が掛かろうとも、僕は五感を研ぎ澄ませて、何度でも思い出すでしょう。あの日々があったことを僕は誇りに思うからです。

 

歯の浮くような言葉だと馬鹿にするでしょうか。

でも、全て本当の事です。あなたのそれのように真剣な言葉です。

 

この先の、それぞれの歩む道で、すれ違うことがもしあっても、重なることはもうないでしょう。でも、確かな温度で重なったあの日々があったからこそ進める未来が僕にはあります。あの日々が僕の今日に確かな意味を与えます。

 

煌びやかで暖かい、陽だまりのようなあの日々があったからこそ、今があると胸を張って言えるように、今日も背筋を伸ばして、強く足を踏み出して生きていこうと思います。

 

あの時、君に対して抱いた、親密で暖かい気持ちは、僕が今まで感じたことのない類いの特別な感情でした。

自分よりも大切な人がいた。それだけで、世界の全ての色が輝いて見えました。

 

いつも戸惑いながらも、時には愚痴を吐きながらも、前を向こうとするあなたが好きでした。手を伸ばそうとするあなたが好きでした。

僕もあなたのように、手を伸ばそうと思います。何も掴めなくとも手を伸ばし続けようと思います。何かが掴めたら、また手紙を書きます。

 

大変な事も実に多いですが、共に生きましょう。

 

あなたは自分が思っている以上に素晴らしいです。どうかそれを忘れないで下さい。

僕は今でもあなたのことが好きです。

 

いつまでもお元気で。

 

大沼湖のほとりのベンチより

 

 

君と話していると、才能とか賢さとか夢とかそんなことがどうでもいい、取るに足らないものに思えてきます。僕は、自分の外側にあるものばかりにいつも囚われていて、内側にあるものをおざなりにしてばかりいます。

体裁、外聞、見栄、職業、学歴、評価、地位、名誉、それらは人生のスパイスとして少量は必要でしょうが、それが目的となれば、自分を見失い、刺激を常に追い求め、人生が壊れてしまいます。

 

 

 

君の「聞いて」と言う言葉を何故だが最近よく思い出します。それは僕が本当の意味で聞けていなかったからだと思います。未だにその後悔が澱のように残滓となっていきます。

僕に構わず自分の話を始める君は、いつも要領を得ないけれど、僕にはそれが、誰のどの言葉よりも心地が良かったです。君の声は、この世のどこまでも届くように高く澄んでいて、僕の心がこの世のどこにあろうと、その声を届けてくれました。その声は、いつだって教えてくれました。僕の心の在りかを。心のあるべき場所を。僕の向かうべき場所を。

それなのに、そんな君に僕は大切な事は何も言えませんでした。言うべき言葉は、喉の奥に、小魚の骨のようにつっかえて、飲み込むことも吐き出すこともできませんでした。どれだけ本を読んでも、どれだけ言葉を知っても、僕の言葉は、肝心な時になりを潜め、どうでもいいときに限ってスラスラと、想いの上澄みだけをすくいだします。喉にはその骨はもうないけれど、違和感だけはいつまでもなくなりません。その違和感を伝えようと、こうして手紙を書いているけれど、違和感を違和感のまま解凍せずに届けるのは、思いの外難しいようです。

 

僕には、君に差し出せるものがなにもない。そう思っていました。でもそれは僕の勘違いでした。それはたくさんあったのです。ただ、差し出した後の君の気持ちや状況を勝手に先読みして、差し出すことに怯えていただけでした。

君は僕に「言葉にしてくれないと分からない」と言いました。そんな君に対して、僕は何も言えなかった。文章にすると、こんな風に書けることが、面と向かうと、どうして言葉にできないのでしょう。どうして、伝えたいこととは別のことがいつも伝わってしまうのでしょう。

 

なぜ、想いは真っ直ぐ届かないのだろう。心の中にある時の色や形は、外に出した瞬間に、どうして歪んで滲んでしまうのだろう。それが怖くて、僕は結局、何も言えなくなってしまう。喉の奥で宙ぶらりんになった僕の言葉は、未だに僕の心を容易くひりつかせる。

 なぜ言葉は、想いを正しく写せないのだろう。それはいつからだろう。言葉がこの世界に出来たとき、その時は言葉の数が少なく、想いを正しく表現しえなかっただろう。おそらく一割かそれ未満しか想いをカバーできなかっただろう。言葉が溢れる現代はどうだろう。同じじゃないだろうか。僕らの言葉は、いつまでたっても、想いの一割未満しか表現できない。言葉はいつだって言葉足らずだった。小さかったあの頃よりも、伝えられる言葉は増えているはずなのに、どうして、いつまでたっても、言葉は想いのそのスピードに追いつけないのだろう。僕の気持ちは、どうして、君の気持ちに追いつけないのだろう。

どうすれば、いつになったら、言葉は想いの全てをカバーできるようになるのだろう。言葉が世界を作ったならば、この世界は神の想いとはかけ離れているだろう。だからきっと、僕と君はお別れすることになった。世界が、神の理想とはかけ離れているから、僕たちはいつか離れることになる。