どうもトブエです。
私は、現在29歳です。
小学校2年生から、大学を卒業するまで、反抗期。
母親には、
毎日のように「クソババァ!」「タヒね!」と言っておりました。
私が小学校高学年の時、母を泣かせてしまったこともあります。
その時、母は、「本当にタヒんでも良いんだね?」と言って、
その日は何も言葉を発しませんでした。
私は「なんでそんなことを言ってしまったんだ。」と、後悔していたことを覚えています。
なぜ、そこまで荒く長い期間の反抗期が来ていたのか、
今振り返ってみると、、
やはり、
『転校』
小学校2年生に上がるタイミングでの転校が大きかったと思います。
小学校一年の頃は、学校が楽しく、
「友達と一緒に生活する」という事にワクワクしておりました。
記憶に残っているのは、
”雨の日、紙粘土の図工”、
”木が生い茂る遊び場”です。
「友達100人もできるかな?」と、不安もありましたが、
話せば、みんなと仲良くなれると思っていました。
小学校2年生に上がるころ、
おばあちゃんの家が建て変わりました。
2世帯住宅です。
そこに引越し。
1年生の最後の日に、
クラスのみんなが、
お祝いしてくれたのを覚えていますが、
なんでお祝いされているのか、
理解していませんでした。
「自分に起きている出来事は、みんな経験する」と、勝手に思っていたのでしょう。
転校が特別だったと知るのは、まだ先のことです。
さて、2年生になり、
まず記憶にあるのは、
”違う民族”のグループに入れられてしまった感覚です。
・みんなが歌う歌は知らない。
・みんなは先生と仲がいい。
・みんなは近くのデパートの名前を知っている。
・最寄り駅の名前も知っている。
僕は、全部知らない。
教室のすぐ外で”だるまさんが転んだ”で遊んでいて、思いっきり転んで、
右膝の皮が剥け、白い脂肪組織が見えてしまいました。
一緒に遊んでいた子(誰と遊んでいたのか、全く思えていない)担任の先生のところに連れて行ってくれました。
担任の先生は、”無関心”でした。
血がなかなか止まらなかったのは覚えていますが、
その後の記憶はありません。
右膝の傷跡は、今でも残っています。
そこから、
『大人は信用できない』と思うようになったのだと思います。
なので、
”大人が作る宿題”は、やりませんでした。
”大人の説教”も、無意味だと思いました。
とにかく、
”大人の言うこと”は聞きたくありませんでした。
今は少し言語化できますが、
当時は全て感覚的だったので、
僕のことを正確に理解してくれる大人はいませんでした。
そう感じています。
話は戻りますが、
母親にはすごく迷惑をかけてしまったと思います。
母親は、毎朝、コーヒーを飲んでいました。
”苦くて、まずいコーヒー”
「よくこんなもの毎日飲むなぁ」と思っていましたが、
大学生頃に、ちょうど、コンビニのコーヒーのクオリティが上がり始めていましたので、
カッコつけてブラックコーヒーを飲んでみたんです。
「あ、なんかおいしい。苦いけど。」
それから、少しずつコーヒーを飲むようになり、
社会人1年目の冬に、
ハンドドリップにロマンを感じて、自分で挽いたコーヒーを淹れ始めました。
やっぱり挽きたてのコーヒーは美味しくて、
母親にも飲ませたんです。
そしたら、喜んでくれて。
憧れの大人とかいないから、
夢なんか無い。
でも、もし、
「もし、、カフェなんか作れたら幸せだろうなぁ」
と、思って、
初めて”夢”というか、”目標”ができました。
それで23歳から、
本当にいろんなコーヒーを飲んできて、
27歳でコーヒーの勉強のために会社辞めて、
長野から福岡に出てきて、いろんなコーヒー飲んで、2年間。
今は、自家焙煎のお店に働いています。
コーヒーはたくさんの種類があります。
酸味、苦味、フルーツ感、コク、甘み、などなど。
国内外、美味しいコーヒーで溢れていますが、
僕も、自家焙煎はじめました。
母親に恩返しができるように。
”母親として頑張っているあなた”が、
喜んでくれるように。