あの日

22歳だった私は

5時頃 ふと 目が覚めた


当時 看護学校の実習中で

前日は

成人式の振替休日で お休み


彼氏と寝ていて

目が覚めた時には

まだ 辺りは暗かった


8時半に実習先の

京都武田病院まで 行くので

7時半には 北区の自宅を出る

もう少し 眠れるな・・


そう思って 微睡んだ時だった


下から 

ドンドンと突き上げるような 揺れ

その後 

横に揺さぶられるような 揺れ

それまで 長崎では

地震に遭った事がなく

長い時間に感じた

大丈夫か!?

気がつくと お布団の中で

彼氏が 私を庇うように

上に被さってくれていた

大丈夫・・

結構 揺れたね?

急いで TVをつけ NHKを見る

しばらくは 何も映らなかったが

そのうち 京都局のアナウンサーが

神戸や西宮で地震があったと

報道を始めた

彼氏は仕事へ行くと出て行き

私も実習先の病院へ向かう

幸い 

京都市内の 交通網は生きていて

多少の混乱はありつつも

無事に 京都駅の病院へと到着


内科病棟の実習 2週目で

今週で終われる、と思っていたが

朝の詰所で

受け持ち患者さんが

地震に驚いて ベッドから落ち

足を骨折して

整形外科病棟へ転床したと聞く

あと1週間、どうしよう😣

選び出されたのは

パーキンソン症候群で寝たきりの

言葉の出ない お爺さんだった

しかも

痩せて細い腕で 援助を拒否され

耳は聞こえるが

言葉にならず 話も通じず

睨みつけられるばかり・・


あれは辛かったな😰


1週間の実習を終え

学校へ登校すると

看護職の教師達が チームを組んで

神戸に医療派遣されていて

教師不足で 授業ができない

仕方なく 球技大会が開催された

バレーボールをしていて

あれっ?と 気がついた

クラス一の美人で

『ビューティー』と呼ばれていた

同級生が居ない

今日は休みかな?

震災以来 

兵庫・大阪が地元の子は

実家に戻っている子が多かった

ビューティーも大阪だったかな?


違った


医療派遣から戻った担任が

憔悴しきった顔で告げた

『 〇〇さんが 行方不明です 』

『 ご家族から 届け出がありました 』

『 16の夜に 神戸に泊まって 

   翌日 帰る予定でしたが 

   家には 戻っていません 』


えっ?!

16日の夜に 神戸に居て

17日になっても 帰らない?

『 神戸の彼氏のとこ行くねん😊 』

そう言って

嬉しそうに笑っていた 彼女とは

以来、30年 会えていません

ビューティーのお母さんとも

コロナ禍の間に

連絡が取れなくなって・・

看護学校の友達も

もう あちこちに散らばって

私が京都を離れてから 24年

連絡は取り合っているけど

実際には 会えていません

寂しいけど

それぞれ家庭もあり

京都と長崎は本当に遠いな・・と

実感します🥺




あれから 30年

ビューティー 
私は忘れてないよ
みんな あなたを待ってるよ
あの 明るい笑顔も
鈴の鳴るような 綺麗な笑い声も
美しい 花のような顔も

昨日の事のように 思い出す

あれから
もう 30年も経ってしまったけど
生きているのなら
健やかであって欲しい

もしも
亡くなってしまったのなら
どうか 
安らかに お眠り下さい

私の子供
二十歳になったんだよ、って
今日は 
ビューティーに報告しました

1995.1.17
御霊の安らかならんことを・・

💐