呉越春秋(ごえつしゅんじゅう)
湖底(こてい)の城 第五巻

著:宮城谷昌光
発行所:株式会社講談社

この五巻は凄い^_^孫武(孫氏)が呉の将軍として採用されるまでと、楚などとの戦いにおける戦略の立て方が、孫子の兵法に書かれていることの実践版として表れている。現代のビジネスにも通ずる。とても為になる!深い歴史小説(^_^)

●術は当事者のみが用いるもの。法はその時、その場にいなくても活用できる。というのが孫武先生の考え方。

●孫先生は弟子たちに義をおしつけて、それで思想と行動を縛るということはしない。戦場は生死の場なので、原理は尊重するが、その原理にかかりすぎると死ぬと教えになったのではないか。

●●孫武は具体例をはぶいて抽象的な表現にとどまるのは、その抽象性が孫武の兵法の真髄であるともいえる。では、実際の戦場でどのようにすればいいのか?という問いが必ず生じる。しかし、孫武にとってはこの質問は愚問。なぜなら戦場は千差万別だから。



●孫先生は、兵は詭道(きどう)であると繰り返しおっしゃる。詭とは、いつわることであり、だますこと。自国の兵を死傷させることは、どうみても誠切であるとは思わない。ゆえに、先生は戦いに至るまでを重視する。そこに既に虚と実が存在すれば、兵事以前の日常に虚と実があることになり、誠実さに満ちた生き方はないのであり、もしもそう見せるものがいれば、そのものには必ず虚妄(きょぼう)がある。

●旅行中に人に救われたということは天に助けられたと言い換えることもできる。もしも天がこの者を死なせるには惜しいと思ったのであれば、孫武はのちに天を感動させる事業を完成させることができると示唆を受けたことになる。その事業とは、兵法の体系化である。

●理を極限まで進めていくと、非常識と変わりがなくなるともいえる。

●呉王 闔盧(こうりょ)に献呈される兵法書こそ、後世、中国の内だけでなく、世界にも広がって名書とたたえられる「孫子」である。この書物は13編で構成されているが、最初に呉王に献呈されたものは数編。孫武は文字を増やすことよりも、文字を削ることに日数を費やした。

●再読した時より三読した時の方が新鮮さが強い。この書物は読むほどに深みを増す。このような無装飾の兵法をかつて誰も書いたことがない。だいいち、兵法という言葉が斬新。

●兵は勝つべくして勝つとは誰も発想しなかった。兵術など稚児の遊びに過ぎなかった。孫武よ、実際に兵を動かしてみよ(※呉王が兵法書を読んだ後、2日後に孫武に発した)。中庭に移動した伍子胥は唖然。後宮の美女180名。→呉王が孫武を試すために。この後、誰も孫武の言うことを聞かず、隊長に任命した2名を罰として、その首を斧で切り落とした。

●戦う前に敵の長所と短所を知る必要はないと思っていた。要するに、占いによって吉を得て出師したかぎり、敵に遭遇すれば戦うのみ。しかし、孫武は場当たり的な戦い方をもっとも嫌っていた。一兵も使わずに勝つというのが孫武の理想。そのためには、外交の力を用いなければならない。兵を出せば、それだけ国家の財産が減少する。負ければ損害は甚大。たとえ、勝っても国益が増大するとは限らない。

●「拙速(せつそく)」という軍事用語を広く知らしめたのも孫武。拙速とは、つたない速さをいう。戦い方はまずくても早い方がよい、という考え方である。反意語は「巧久(こうきゅう)」。過去の戦いにおいて、巧久で大勝した例は全くない。

●戦いは生きものである。敵軍を率いる将が賢であろうが愚であろうが、こちらが思っていた通りに動止してくれるとは限らない。また相手は敵軍だけではない。天気も変化。そういうことを踏まえて、孫武の兵法書は抽象的である。細かく具体的に書けば書くほど、兵法が窮屈になり、自在性を失っていく。(※呉王の長子の終纍(しゅうるい)が楚の戦いのために出してきた戦略が完璧だったことに対する後述)

●●●孫武の兵法に、目の見えない根があるとすれば、危険な旅行と戦場踏査(調査)である。