秋田 光彦さんのFBより転記します。
終活に関する事が書かれています。前回に続き載せます。
超高齢社会になって、長生きになった。長生きは結構だが、生が間延びするほど、いろんな世話にならなくてはならない。寝たきりになると、息子や娘の手を煩わせる。自分は年金暮らしだ。そのうち、病院から治る見込みはないから家に帰ってくれ、と言われたら、いったい誰が引き受けてくれるのか。そういう言葉にならない「恐れ」を今の高齢者は共有しているのではないか。「恐れる」高齢者と「畏れ」ない家族。終活が加速していく背景にそんな家族の事情が見え隠れする。
また「迷惑をかけたくない」一方で、現代日本は「迷惑をかけないで済む」システムが発達している。医療、介護、福祉…いのちを支える「生命線」の多くが、じつは「外注」されているのだ。メディアは底辺の問題しか取り上げないが、高齢者市場は巨大な「成長産業」だ。
子どもたちに頼るのは嫌だ。お金さえ払えば何とかなるのだから、「迷惑をかけたくない」と蓄財に励み、「最期まで自分らしく」と訴えながら、孤塁を守る。そういう当事者感覚があると考えるのは、私だけだろうか。高齢者がいわば自己防衛として終活に走っても、何も不思議はないのである。
いのちは一人称だけで完結しない。いのちは、二人称から捉え直すと相貌を変える。「自分の墓なんかいらない」といっていた夫が、愛妻を亡くしてから熱心に墓参りをするようになった事例などは山ほどある。終活が、そのたいせつな二人称の視点を削り落としてはならないと思う。終活が「いのちの自己所有」を促進させる材になってはならないのだ。
セミナーでは、フロアの若い僧侶から「終活と私たち仏教界はどう向き合っていけばいいのか」という質問があった。私はこう応えた。
「いのちには、私という一人称、あなたという二人称、その他大勢という三人称がある。一と二のある部分は、終活が担っていくのかもしれない。しかし、震災で亡くなった無辜の死者をけっして他人事とは思えないいのちの感覚、つまり柳田邦男さんの言う「二.五人称の視座」を提出できるのは仏教だけ。そのことに自信を持ってほしいし、もっと坊さんは社会に語っていかなくてはならないと思います」
いのちの視座がどんどん短縮されていく。いのちをとらえる視野をどう広げ、そこから自己の存在をどう見つめ直すのか、(そのことを日本人に呼びかけていくことも含め)やはり宗教の役割は大きいと思う。
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いろいろな考え方がありますね。この方は大阪の住職の方ですので、仏教の事が出てきています。
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