佐治晴夫先生の新しい連載が今日から始まりました☆
毎日新聞・東海版の隔週土曜日、紙面はカラーです♪
タイトルは 「佐治博士のへえ~そうなんだ?!」
とっても愉快なタイトルですね☆
佐治博士のへえ~そうなんだ!?:/1 神さまっているのかな - 毎日jp(毎日新聞) http://www07.mai.vip.ogk.yahoo.co.jp/chubu/shakai_sports/news/20120414ddq012070005000c.html
佐治博士のへえ~そうなんだ!?:/1 神さまっているのかな
◇見えなくても心の中にいる
お菓子って不思議ですね。ふつう、ご飯の時は、おなかいっぱいになったと思っていても、お菓子となると、別腹などといって、食べられたりします。実際に、レントゲンで、おなかの写真をとってみると、満腹の状態でも、お菓子だけは、胃袋の中にすんなり入っていく様子がわかります。お菓子が持つ不思議な魔力です。
ところで、今から100年以上も前に生まれて、26歳の若さでこの世を去った天才童謡詩人、金子みすゞの詩に、「お菓子」という作品があります。
いたずらに一つかくした
弟のお菓子。
たべるもんかと思ってて、
たべてしまった、
一つのお菓子。
母さんが二つッていったら、
どうしよう。
おいてみて
とってみてまたおいてみて、
それでも弟が来ないから、
たべてしまった、
二つめのお菓子。
にがいお菓子、
かなしいお菓子。
さて、いかがですか。皆さんも、この詩に書かれているようなことに近い経験をしたことがあるのではないでしょうか。
もう一度、詩の内容をおさらいしてみましょう。お母さんが弟と仲良く食べなさい、といって二つくれたお菓子。食べてみたら、とてもおいしくて、お母さんに見つかったらどうしよう……と心配しながらも、ついつい、弟が帰ってこないため食べてしまったのです。その途端、おいしいはずのお菓子が苦く悲しいお菓子になってしまったというのです。
どうしてお菓子の味が変わってしまったのでしょうか。もし、そのお菓子を弟が食べたら、きっとおいしいといって食べたでしょうに……。お菓子の味を変えてしまったのは、お母さんにしかられるかな?と心配したからでしょうか。それとも、悪いことをしてしまったと自分で気づいたからでしょうか。考えてみれば、お菓子そのものの味が、変わることはありません。ただ、あなたの心がそう感じてしまっただけです。それは、あなたの心の中に「神さま」がいて、そんなことをしてはいけません、といっているのかもしれませんね。でも、神さまの姿はどこにも見えません。見えないからいないのでしょうか。
私たちには、電波の姿は見えませんが、電波が確かにあることは疑う余地はありません。だって、携帯電話やテレビがあるんですからね。風も目には見えませんが、木の葉を揺らしたり、窓ガラスをたたいたり、台風の時など、私たちの体を吹き飛ばそうとしたりします。見えなくてもあるということですね。
実は、私たちの人生には限りがあります。でも、いつまでも生きていたいと思うのが人間です。それが命の特徴だからです。そのかなわぬ希望をかなえてくれるのが、永遠に生きる存在として人間の心がつくり出した神さまだったのです。
キリスト教が生まれたユダヤの古い言葉で、暗闇のことを「ホシェフ」といいますが、「神さまの住処(すみか)」という別の意味もあります。見えなくても、神さまは確かにいらっしゃるようです。あなたの心の中にね。
毎日新聞・東海版の隔週土曜日、紙面はカラーです♪
タイトルは 「佐治博士のへえ~そうなんだ?!」
とっても愉快なタイトルですね☆
佐治博士のへえ~そうなんだ!?:/1 神さまっているのかな - 毎日jp(毎日新聞) http://
佐治博士のへえ~そうなんだ!?:/1 神さまっているのかな
◇見えなくても心の中にいる
お菓子って不思議ですね。ふつう、ご飯の時は、おなかいっぱいになったと思っていても、お菓子となると、別腹などといって、食べられたりします。実際に、レントゲンで、おなかの写真をとってみると、満腹の状態でも、お菓子だけは、胃袋の中にすんなり入っていく様子がわかります。お菓子が持つ不思議な魔力です。
ところで、今から100年以上も前に生まれて、26歳の若さでこの世を去った天才童謡詩人、金子みすゞの詩に、「お菓子」という作品があります。
いたずらに一つかくした
弟のお菓子。
たべるもんかと思ってて、
たべてしまった、
一つのお菓子。
母さんが二つッていったら、
どうしよう。
おいてみて
とってみてまたおいてみて、
それでも弟が来ないから、
たべてしまった、
二つめのお菓子。
にがいお菓子、
かなしいお菓子。
さて、いかがですか。皆さんも、この詩に書かれているようなことに近い経験をしたことがあるのではないでしょうか。
もう一度、詩の内容をおさらいしてみましょう。お母さんが弟と仲良く食べなさい、といって二つくれたお菓子。食べてみたら、とてもおいしくて、お母さんに見つかったらどうしよう……と心配しながらも、ついつい、弟が帰ってこないため食べてしまったのです。その途端、おいしいはずのお菓子が苦く悲しいお菓子になってしまったというのです。
どうしてお菓子の味が変わってしまったのでしょうか。もし、そのお菓子を弟が食べたら、きっとおいしいといって食べたでしょうに……。お菓子の味を変えてしまったのは、お母さんにしかられるかな?と心配したからでしょうか。それとも、悪いことをしてしまったと自分で気づいたからでしょうか。考えてみれば、お菓子そのものの味が、変わることはありません。ただ、あなたの心がそう感じてしまっただけです。それは、あなたの心の中に「神さま」がいて、そんなことをしてはいけません、といっているのかもしれませんね。でも、神さまの姿はどこにも見えません。見えないからいないのでしょうか。
私たちには、電波の姿は見えませんが、電波が確かにあることは疑う余地はありません。だって、携帯電話やテレビがあるんですからね。風も目には見えませんが、木の葉を揺らしたり、窓ガラスをたたいたり、台風の時など、私たちの体を吹き飛ばそうとしたりします。見えなくてもあるということですね。
実は、私たちの人生には限りがあります。でも、いつまでも生きていたいと思うのが人間です。それが命の特徴だからです。そのかなわぬ希望をかなえてくれるのが、永遠に生きる存在として人間の心がつくり出した神さまだったのです。
キリスト教が生まれたユダヤの古い言葉で、暗闇のことを「ホシェフ」といいますが、「神さまの住処(すみか)」という別の意味もあります。見えなくても、神さまは確かにいらっしゃるようです。あなたの心の中にね。