本書全体を読んで,大阪維新の会の分析としてはちょっと踏み込みが浅いというか,やや維新に甘い分析・評価のように感じた。クラウドソーシングを用いたアンケート調査によって大阪の人々の意識や選好を示したり,大阪市と他の政令指定都市とで人口一人あたりの財政支出や偏差値を比べたりして,維新の会の政策の特徴を明らかにしようとしているのだが,こういう統計学的手法で維新の会という政党の性格をどこまであぶり出せるのか,根本的な疑問が残った。もっと維新の会の政治や政策に内在した方法による批判が必要ではないか,そうしないと維新の会という政治勢力の本当の恐ろしさはわからないような気がした。とはいえ,本書において維新の会の財政運営を分析することで「財政ポピュリズム」という現象を浮かび上がらせたことは,大いに評価できるだろう。
財政ポピュリズムとは,ごく簡単に言うと,既得権益(公務員や外郭団体など)への予算配分を解体し,できるだけ多数の人に頭割りで予算を配り直すことで人々の支持を得ようとする財政運営の方法を指す。ここには均衡財政主義と普遍主義的配分という2つの原理が働いている。均衡財政主義とは歳入と歳出を均衡させる財政のあり方のことで,その方針の下で維新は財政赤字の縮小を急速に進めようとした。普遍主義とは,政府が供給する公共サービスを国民すべてに提供しようという配分方法のことで,一部の困った人に限定してサービスを供給しようという選別主義とは反対の考え方である。
本当に不要な歳出が多くあったり,財政にかなり余裕があったりする状況であれば,均衡財政主義の下で,できるだけ多くの人に頭割りのような形で配分を行うことは可能で,間違った政策選択とは言えないだろう。だが問題は,財政が逼迫している中で,既存の歳出が特定の人たちにとって必要不可欠のサービスであった場合である。維新の会は,既存の配分が既得権益であり,「無駄なもの」であると主張し,普遍主義的な配り方を選択した。このような財政ポピュリズムによって人々の支持を獲得してきたわけである。
具体的には,維新の財政運営は,公務員を削減して人件費を極力抑え,また選別主義的な教育費や社会保障費への配分を見直すことで,普遍主義的な配分に転換している。普遍主義的な配分と言えば聞こえは良いが,問題は,特別支援学級や生活保護世帯といった弱者やマイノリティのニーズを軽視し,また既得権益だと敵視し,他方でマジョリティの声を重視している点である。
「身を切る改革」と均衡財政を前提に,マジョリティを含めた普遍主義的なサービスを提供するためには,いずれかの予算を削り取り,全体に配り直す必要がある。限られた財源の範囲内でマジョリティへの配分を意識する維新の教育政策は,普遍主義的な発想でありながら,その陰でマイノリティから財を奪い,社会的分断を生み出しかねない。
(吉弘憲介『検証 大阪維新の会』ちくま新書p.136~p.137)
本書で結論的に書かれているように,このように困難を抱えたマイノリティへの配分を取り上げて,マジョリティに配り直す普遍主義的な配分方法は,財政の役割を否定するものにほかならない。つまり財政は,市場メカニズムにまかせておいては十分に調達できない教育や医療・福祉といった公共財・公共サービスを供給する役割を持っている。だが普遍主義的な配分方法をとる財政ポピュリズムは,こうした本来の財政のあり方を否定するものである。財政ポピュリズムを押し進めていけば,本来財政によって供給されるべき教育や医療・福祉,インフラ設備,環境対策などが社会に十分調達できなくなり,結果として社会全体が貧しくなるだろう。
財政にポピュリズム的な観点を取り入れることで広く大衆の支持を得ることは可能だが,それと引き換えに私たちは,個人の利益を超えた共同体の利益を実現する手段としての財政を手放すことになる。私たちは社会の貧困・分断という,取り返しのつかないマクロな代償を支払ってまで,「財政」を個人的な利益の追求に従属させて良いのか――財政ポピュリズムの台頭は私たちに問いかけている。
財政ポピュリズムは,財政の本質的価値を否定することによって政治的支持を取り付ける手法である。しかし,万博や都構想は,共同の負担によって共同の利益を実現しようとする,まさに財政そのものといえるプロジェクトである。
それ故に,維新が支持を取り付ける手法として用いた財政ポピュリズムは,価値の共有による財政を通じた巨大なプロジェクトと根本的に矛盾を生じさせる。
(本書p.186~p.187)
…環境問題への負担も,社会的マイノリティへの再配分も,個人のコスパを超えた人間社会全体の豊かさに必要不可欠なものなのである。
維新の会を分析することから見えてきた,個人にとって「コスパのいい」資源配分によって支持を調達する財政ポピュリズムは,やがて私たち全体を貧しくするだろう。
(本書p.195)
維新の会がよく言う「身を切る改革」とは,このような財政ポピュリズムのことだったわけである。つまり「身を切る」とは,自らの自治体の公務員数を減らし非効率な部門をなくしていくことのみならず,自治体にとってコスパ(投資効率)の悪い社会的マイノリティ,障害者,難病患者らを切り捨てることだったのだ。彼・彼女らは財政的支援を打ち切られれば生きていくのが困難な人たちである。
維新の「身を切る改革」の正体は,マイノリティや弱者を切る(斬る=虐殺する)ことであるといっていい。それは,障害者や重病者を国家の役に立たない存在だとして組織的に虐殺したナチスのT4作戦に通じるものである。その意味で財政ポピュリズムは財政ファシズムへと転化する恐れもはらんでいる。「身を切る改革」とか「大阪の成長」とか,スローガンは勇ましくても,その実態は社会的少数者や弱者を犠牲にしてマジョリティに属する人々の利益を最大化しようとする政策にほかならない。維新の会とはそういう恐ろしい政策を実行する政党なのだということをしっかりと胸に刻んでおきたい。
そもそも「身を切る改革」という維新のスローガンを最初に聞いたとき,私はぞっとした。「維新」という党名もそうだが,これは武士の発想からするネーミングだろう。武士は日常的に人殺しを仕事としており,「身を切る」とは武士道における自害,切腹を想起させる。武家の「家」観念は,妻や娘が死んでも家がつながっていれば良いという発想だ。維新の「身を切る改革」もそういう武家の発想に近い。つまり社会的弱者やマイノリティは,仮にいなくなっても共同体の存続と成長には支障はないという発想である。江戸時代の身分でいえば,私は,殺人を職業とする武士よりも,農業や漁業を生業とする百姓の方に断然共感する。だから百姓的な発想や感覚を持った政党や運動を応援したいと思う。と同時に,「侍ジャパン」とか「サムライ・ブルー」とか連呼して武士を褒めそやすのはいい加減やめてほしいと思う。こういう侍礼賛ムードというのは,維新の躍進・台頭と決して無縁ではない。
「身を切る改革」=「財政ポピュリズム」を推進する大阪維新の会は,武士と同じ「ひとごろし」である…