中村政則『戦後史』(岩波新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 

 上の切り抜きは,1週間くらい前に中日新聞に載った記事で,ウトロ放火事件で実刑判決を受けた有本受刑者と面会や手紙でやり取りをしてきた記者が書いたものである。非常に重要なことが書かれていると思ったので,載せておいた。

 

 記事によれば,有本受刑者は歴史問題に並々ならぬ関心を持っていたらしい。この記者への最初の手紙では,「韓国人の歴史主張の著しい誤り」を糾すとして,千文字以上を費やして慰安婦や南京大虐殺,日韓併合などの正当化を主張したという。歴史を歪曲するネット右翼や一部の保守政治家・文化人らの主張を真に受けた結果,こうした歴史修正主義に陥ってしまったのだろう。また,歴史修正主義の影響を受けた今の歴史教科書や教育も大いに関連しているように思う。

 

 上の記者は最後に,

野放しにされている歴史修正主義がヘイトを許容する土壌になっていないか

と問題提起をしているが,非常に重要な指摘である。私もまったく同じ問題意識で,ヘイト問題を見ている。有本受刑者のように歴史を否定する態度が,ヘイトスピーチやヘイトクライムなどの排外主義的な行動に結びつくわけである。すなわち,排外主義的な意識や行動の基礎には,歴史修正主義が潜んでいるのだ。その意味で,侵略戦争や植民地支配における日本の加害性を否定するような,歴史修正主義的な言説や教育の広がり・浸透は,大変由々しき事態であり,軽視してはならない。

 

 歴史認識問題について,掲題の本の著者で日本近現代史が専門の中村政則さんは,

政治意識の基礎には歴史意識がある

というテーゼを長年主張し続けてきたが,本書でもそのテーゼを詳しく解説している。

歴史意識とは自己意識であり,われわれは”どこから来て,今どこにいて,これからどこへ向かうか”を知ろうとする意識である。歴史認識において,過去は単なる過去ではなく,現在に突き刺さった過去として認識され,それは否応なしに現在を規定する政治・経済・外交・文化などと密接に関係せざるをえない

(中村政則『戦後史』岩波新書p.231)

 

 

 

 歴史意識が現在の政治・経済・文化等を規定する―― このことを政治権力者はよく理解しているから,歴史を利用しようとするわけである。すなわち,言論統制や教科書検定の強化などによって国民の歴史意識を変え,政治意識を変え,支配者に都合の良いイデオロギーの再編を図るのだ。特に憲法改正を本丸に据えた安倍政権(第一次・二次)は,その点を明確に意識していて,教育基本法の改正(改悪)やメディアの統制・弾圧,教科書検定強化,戦後70年談話などでの加害や謝罪の否定,嫌韓・反中イデオロギーの拡散といったことに力を注いだ。それがある程度うまく行って,歴史修正主義的な所説を信じるネット右翼や排外主義者が大量発生したわけである。

 

 掲題の『戦後史』は2005年刊行なので,小泉政権までしか扱われていない。つまり第一次安倍政権の成立直前に出た本だから,例えば「教育基本法は五八年にわたって改正されたことは一度もない」(本書p.28)と誇らしげに書かれているのだが,そうした戦後派の誇りも安倍政権の登場によって打ち砕かれるわけである。さらに第二次安倍政権では,集団自衛権の行使容認や安保法制関連法の成立によって憲法九条が骨抜きにされた。

 

 本書では小泉政権下の新自由主義政策や靖国神社参拝などを厳しく批判し,その後の改憲の動きや政治の右傾化に警鐘を鳴らしているが,残念ながら著者の懸念や見通しは当たってしまったと言わざるを得ない。冒頭で述べたウトロ放火事件も,歴史修正主義の影響を色濃く帯びており,その意味では安倍政治が生んだ犯罪と言える。

 

 ところで,本書の著者・中村さんは1935年生まれなので,敗戦の時は10歳,すでに物心ついていたといえる。「戦後史」が丸ごと自分の人生や記憶と重なっているわけで,いわば「戦後史」の生き証人とも言える存在である。本書は戦後史を単に概説的に描くのではなく,焦点を絞り,また自らの個人的体験を交えながら叙述しているので,大変ユニークな歴史書となっており,読み物としても面白い。特に戦後民主主義の立場からの記述が多いので,戦後民主主義を考える上でも役に立つ。

 

 上記の歴史認識問題を含めて,中村さんのような戦後派知識人からは学ぶことが実に多い。本書で中村さんが提起した

貫戦史(トランスウォー・ヒストリー)」

という方法も,日本の近現代史をとらえる上で重要な方法と言えよう。「貫戦史」とは耳慣れない用語だが,ごく簡単に言ってしまえば,戦争の影響を重視して歴史を描く方法である。戦争の影響や戦争の記憶を基礎に歴史を描くというのは,いかにも戦後派,戦後民主主義世代らしい。そして,その方法は今もって有効であり,特に日本の戦争加害を否定する歴史修正主義の妄想劇場に対しては大きな有効性を発揮するであろう。

 

 今の若い世代から見れば,すでに「戦後」は終わっているのかもしれないし,そもそも「戦後」という観念すら無いか薄いのかもしれない。だが貫戦史の方法をとると,「終わった戦後」と「終わらない戦後」の二重構造が現代日本に横たわっていることが見えてくる。中村さんは,日本の「戦後」はまだまだ終わっていないと言う。すなわち,沖縄から軍事基地がなくならない限り,沖縄と日本の「戦後」は終わらないし,アジアに対しては過去の清算(戦争犯罪と植民地支配に対する誠心誠意の謝罪と賠償)が終わるまで「戦後」は終わらない。

 

 中村さんは,日本の「戦後」の終わらせ方には,「戦争への道」か,「平和への道」か,という二つの対立的な道があると言う。そして,本書が書かれた戦後60年当時,日本はその岐路に立っていると,危機感をもって指摘する。

 

 さて,本書の刊行からさらに17年たった今日,日本は明らかに前者の道に踏み出したと言ってよい。そして,この問題に最終決着をつけるのが憲法改正問題である。私は憲法改正を阻止して,何とかこの国を後者の道に引き戻したいと思っている。そのためにも戦後民主主義から大いに学び,歴史意識を研ぎ澄まして,この国にはびこる歴史修正主義を終わりにしなければならない…