ヒトラー騒動 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 

 菅直人の維新=ヒトラー投稿に端を発する論争がツイッター上で繰り広げられているようだが,それで私がふと思い出したのが次の丸山真男の発言であった。1960年代の話で,真偽のほどは定かではないが,全共闘の学生が東大の丸山の研究室を荒らしたことに対し,丸山が激怒して,

ナチスでさえもやらなかった暴挙

と言い放ったという。これは,いくら丸山といえども「ナチス」という言葉の使い方を間違えているだろう。橋下徹や維新の連中とともに,非難されて然るべき発言である。橋下や維新と,丸山真男を同列に扱うのは丸山に大変失礼だが,とは言えこのナチス発言に限っては弁護しようがない。

 

 国家権力を支える制度の一部であり,いわば権威の象徴である大学を,学生たちが批判し解体しようとするのであれば,東大法学部の政治学教授である丸山真男が攻撃のターゲットにされるのは当然であり,その行為をナチスを持ち出して非難するのは筋違いである。非難されるべきは,ナチスを持ち出した丸山の方であろう。「ナチス」の使い方としては,逆に学生や市民の側から,全体主義国家やそれを支える知識人を批判する際に用いるべき言葉で,それが歴史に学んだ最も理性的な態度であろう。

 

学生たちが発した最も根本的な問いは,あなたは権威,すなわち既成の秩序を守る側にいるのか,権威を否定する反秩序の側にいるのかという問いであった。

(西川長夫『パリ五月革命 私論』平凡社新書p.259)

 

 

 

 当時の丸山は明らかに権威,すなわち既成の秩序の側にいた。その丸山が学生らをナチス呼ばわりするというのは,どう考えても非論理的な暴言というほかない。ところで,1968年のフランスには反制度的・反秩序的知識人としてサルトルが,制度的・秩序的知識人としてレイモン・アロンがいたが,東大を辞めた丸山はサルトル的な知識人としての道を歩もうとしたと言っていい。だが市井の人間から見ると,秩序的であろうと反秩序的であろうと,あるいは大学教授であろうとジャーナリストであろうと,政治家であろうと官僚であろうと,知識人である限り,既成の秩序に育てられ,そこに寄生する存在であることは変わりない。

 

 だから私は,ナチスを礼賛する維新などはもってのほかだが,安易にナチスを持ち出して権力批判をする知識人やエリートも信じない。既成の知的秩序の中で育った知識人は,ナチス批判のロジックをいつ市民へ向けるかわからないからだ。戦後民主主義のスターである丸山真男でさえ,東大教授の頃はそうだったわけである。

 

 今回,菅直人は維新の政治手法をヒトラーになぞらえて批判した。その限りでは的確な批判だと思うが,しかし菅とて権力を握った暁には私たち市民のデモや抗議活動を「ナチス以上の暴挙」と非難するかもしれない。思い起こせば菅政権というのは,鳩山や小沢一郎を排除して独裁色を強めた民主党政権であった。他方,維新の会・元代表の橋下徹は,文楽や大阪フィルなど文化・芸術を破壊し,人権博物館を閉館に追い込むなどナチス顔負けの暴挙をやらかした一方で,民主党の政策を批判して「ヒトラーの全権委任法以上」などとぬかしたらしい。政治家や知識人の間には,ナチス・ヒトラーに喩えて批判すれば国民の賛同を得られるとの浅はかなポピュリズム的共通理解があるようだ。だから私はどんなヒトラー発言にも警戒してしまう。

 

 私たちがさまざまな政治言説を読むにあたって常に注意すべきことは,「ヒトラーか否か」ということより,上の引用文にある問いであろう。すなわち,「あなたは権威を守る側か,権威を否定する側か!」

 

 引用元である西川長夫『パリ五月革命 私論』によれば,アルチュセールは宗教・学校・家族・法・政党・組合・文化等々の私的領域が国家に対して果たす役割を認め,それを「国家のイデオロギー装置」と呼んだ。上の引用文の問いというのは,この国家イデオロギー諸装置に寄生する人物か,それとも,そこでイデオロギー闘争を闘う人間か,と言い換えることができるだろう。現代の知識人と呼ばれる層のほとんどが前者に属するのではないか。だから私は全幅の信頼が置けないのである。とは言うものの,反秩序の市民側に限りなく寄り添う知識人もいないわけではない。下の記事に取り上げられている上間陽子さんは,そういう稀な知識人の一人であろう。

 

(1/25中日新聞・夕刊より)

 

 上間さんについては以前も紹介したことがあるが,研究者として調査・研究を行うにとどまらず,若い女性を守るための支援活動にも力を入れる。その根底には,自己責任原理が支配する冷酷な日本社会に対する怒りがある。そして,もう一つ,記事からは若年ママさんのかそけき声に耳を傾ける上間さんの姿が印象深く伝わってくる。理不尽な暴力や虐待で傷つき自分の言葉を持たない若い女性たちが,上間さんを前に少しずつ心を開き,語り始める。この上間さんの姿は,水俣病患者の声にならない声を聞き取り,水俣語に紡いでいった石牟礼道子と重なる。

 

聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない―。(中略)きつい環境を生き抜こうとする女性たちは,その痛みを痛みとして認識できない。自分を語る言葉を持っていないのだ。それが,ふわふわっと現れた上間を前にして,少しずつ吐露する言葉が,自分の「物語」になっていくのを経験する。

 

 上間さんのインタビューから彼女の特性として浮かび上がってくるのは,「怒り」と「聞く耳」だ。この二つの要素は,ある知識人が権威的か反権威的かを見極める上で重要な判断基準になるのではないか,と私は思う。

 

 冷酷な自己責任社会への「怒り」もなく,弱者の声を「聞く耳」も持たない知識人は,いくらヒトラーになぞらえて相手を攻撃しても,所詮は権威や既成秩序を守る側の人間にすぎない。既成の秩序の中で既成の概念を使って冷静に現実を分析し未来を語る知識人と,過酷な現実の中で虐げられた人々の声に耳を傾け,それを自分の声として内面化し言語化する上間さんのような知識人との,どちらを支持するかと問われれば,私は躊躇なく後者と答えたい…