「永山則夫入門」 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 前回記事のコメントで私が書いた「いのちの声を聴く」とは,例えば永山則夫の声を聴くということであろう。60年代後半,盗んだピストルで人の命を奪った永山は,獄中で自らの罪と無知と社会に向き合い,裁判を闘いながら一歩一歩学び生き続けたが,その命は無惨にも絞首刑という国家の虐殺装置によって奪われた。永山則夫を読むことは,「いのちの声を聴く」ことに通じると私は信じている。なお,永山則夫の厖大な遺品・資料を公開展示している東京都北区のギャラリーは「いのちのギャラリー」と名づけられているが,永山の生き方を後生に伝える場の名称としてこれほどふさわしいものはないだろう。

 

 そういう意味では,「いのちの声」に耳を傾けようとしない小池百合子に「いのちを守ろう」などと軽々しく言ってほしくない。あんな奴に私たちの命と生活,安全を委ねてしまっていいのか,よく考える必要がある。彼女のメッセージは何も響いてこないだろう。それは,発する言葉の中身が空っぽで,言葉遊びにすぎないからだ。本気で都民の「いのちを守ろう」と思っている人間なら,関東大震災時に虐殺された朝鮮人の声を聴こうとするはずだ。そして,彼ら・彼女らの声に一瞬でも耳を傾けたのなら,朝鮮人の追悼式への追悼文を拒否するという残忍非道な仕打ちはできないはずだ。そんな奴が「いのちを守ろう」と言っても,信じられるはずがない。しかも小池は,虐殺された朝鮮人は天災による死者と一緒くたにして追悼すればいいという,都知事としては前代未聞の態度をとった。こういう一人ひとりの命を軽視し,朝鮮人を敵視・差別するレイシストがテレビに向かってどんなにきれい事を並べても虚しいだけだ。小池は首長としての資質や知力が明らかに欠けているわけだから,直ちに都知事を辞めて,歴史を学び直し,永山則夫を読んでから出直した方がいい。小池の欺瞞的な言葉はもう二度と聞きたくない。
 

 

 さて,最近出たパンフレット『永山則夫入門』(いのちのギャラリー)には,永山則夫の生の軌跡がわかりやすくまとめられている。映画のパンフレットのような感じで写真やイラストなどを中心に視覚に訴える形のパンフレットで,文章は最小限に抑えられているから,永山初心者にも取っ付きやすいものになっている。また,永山の書いた本もすべて紹介されているので,これからもっと永山則夫を知りたいと思っている人にとっても利用価値の高い読書案内である。すでに永山をよく知っている人にとっても,新たな視点からの永山則夫論もいくつか収録されているので何か新しい発見があるのではないか。何より本パンフレットから読み取るべきは,永山則夫の現代性であろう。

 

 編集後記に市原みちえさんが「永山則夫の活かし方」を考えてほしいと書かれているが,私はこういう時代の今だからこそ永山則夫が求められていると確信している。まさに昨年からのコロナ禍は,社会に蔓延する子どもの貧困と虐待を炙り出した。永山の『無知の涙』刊行後は,事件の根本的な原因として「貧困」に世間の関心が集まったが,残念ながら,当時は「虐待」という視点が欠けていた。その点は,本パンフレットの解説で吉岡一孝さんも指摘しているが,永山が受けた身体的虐待,心理的虐待,性的虐待,ネグレクトは凄まじいものであった。まさしく永山は,近年大きな社会問題になっている児童虐待の被害者であった。そして現在,このコロナ禍という不自由な環境の中で子どもたちへの新たな虐待が危惧されている。永山はこういう個々の家庭での虐待,すなわち「少数抹殺」がファシズムを招くと,独房から社会に訴えた。

 

これらの児童の虐待からの回復の道は険しいが,第一に安全・安心な環境の下で,”依存体験”をする中で,「人や社会は信頼に足る」(基本的信頼)という発達課題の獲得が必要である。いわゆる”育て直し”の上,自立を図るのが現在の社会的養護の現場の責務である。

”依存体験”なくして”自立”はないのである。永山はこれを体験することができなかった。永山は,社会の子どもの育て方を現代に問うている。

吉岡一孝「”社会的養護”と永山則夫」,『永山則夫入門』p.39

 

 

 

 父親の家庭放棄に始まる永山の貧困と虐待という不幸は,犯罪によってしか救われなかった。貧困を背景にした永山事件のような犯罪は過去のものと見る論者が現在では多数派なのかもしれない。が,その言説は,現在の子どもの貧困の広がりや虐待件数の著しい増加を直視していない。社会から排除され孤立した若者が,特定の個人への恨みや利害によってではなく,社会のすべてを敵として無差別殺人を犯す事件は今も続いている。永山則夫を抹殺した日本の国家と社会が,今も無数の永山則夫を生み出しているということだろう…

 

永山則夫が訴えた社会の《エゴイズム競争》から脱落し排除された個人が,社会総体を敵として,その”弱い”部分に攻撃を向けている。永山事件は消えたのではなく,汎社会化して,社会を問い続けている。

武田和夫「永山則夫の生きた時代」,『永山則夫入門』p.37