感染・権力・人口 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 

 名古屋在住のトリコちゃんが昨日の中日新聞夕刊にエッセイを寄稿していたのだが,とても大切なことを書いていると思ったので,上に載せておいた。彼女は,このコロナ禍の中で「隣組予備軍」が増殖し,市民が互いに監視し合う状況になっていることをとても危惧している。お上の言うことは絶対に正しいと信じ,それに盲目的に従って行動し,他人にまで強要する。この同調圧力は戦時中の空気そのものであろう。そして,私たちが監視や批判の目を向けるべきは政府やそれに追随するメディアであると指摘し,権力批判の立場を明確にしている。

 

 さて,このエッセイを読んでいて思ったのは,今,何より必要なのは

権力の分析

ではないかということであった。「隣組予備軍」をつくり出し,同調圧力を社会に蔓延させているのは,権力の作用にほかならないと思うからである。権力分析において欠かせない思想家はフーコーであろう。新型コロナを特集している『現代思想』5月号でも,多くの執筆者がフーコーに言及している。特に木澤佐登志さんと西迫大祐さんは,ともにフーコーの議論(「生権力」)を軸にして感染症問題を論じていて,大変興味深かった。やはり感染症の問題というのは権力の問題なのだ,ということを思い知ったわけである。

 

 新型コロナの感染拡大という状況の中で,私たちはフーコーが切り拓いた権力論を無視するわけにはいかなくなっている,と言ってもいいのかもしれない。フーコーの権力論を全面的に支持するわけではないにしても,今起こっていることの本質や背景をとらえる上でフーコーは重大な手がかりを与えてくれるように思う。

 

 ざっくり言うと,フーコー以前であれば,権力は人民にとって悪であり,したがって最小化し,できれば解体するのが望ましいとされたわけだが,そういう自由主義的もしくはマルクス主義的な理解に対して,フーコーは権力の多面性というか,権力は非常に複雑で一筋縄ではいかないことを明らかにした。とりわけフーコーが提起した「生権力」の議論は,権力が人々を死なせる(殺す)権利である一方で,人々を生かし,人口を増やし質を高めるといった生産的な面があることを強調した。

 

 ここで問題になるのは,「人々を生かす権力」(生権力)と「死なせる権利」(主権権力)がどう関わっているのかということであろう。フーコーによれば,19世紀後半に登場する国民国家において,生権力と主権権力が交差することになった。この矛盾した両者は,人口=「種としてのヒト」という側面が当時の生物学と結びつくことで両立可能になったという。

 

優生学の観点から人口が問題にされるとき,民族の単一と純血という名の下に「国家に侵入して国家の身体に有害な要素を導き入れる人種には,政治的・生物学的排除が必要」だという考えが登場することになる。国家の殺害する権利は生権力を補完することで,人口の内外にいる危険なものを排除する役割を与えられたのである。

 (西迫大祐「フーコーにおける感染症と安全」,『現代思想』5月号p.93)

 

 

フーコーによれば,この生権力が国家のメカニズム(または殺す権力である主権権力)に組み込まれるところに現れるのが生物学的人種主義に他ならない。人種主義,それは権力が引き受けた生命の領域――生物学的連続体――に切れ目を入れる方法,すなわち生きるべき者と死ぬべき者を分ける方法なのである。

 木澤佐登志「戦争・権力・感染」,『現代思想』5月号p.86)

 

 

 

 感染が拡大する中で,ロックダウンなどの強権発動を求める声や,「ウイルスとの戦争」という軍事的な比喩,国民が一致団結して国難を乗り越えようという精神論などが増していった。これは,再び国民国家や主権の役割が前面に押し出されつつあることを意味しているだろう。つまり現在は,生権力と主権権力が重なり合う状況にあるわけである。そこでは,フーコーが言うように,生物学的人種主義が再び顔をのぞかせ,「生きるべき者」と「死ぬべき者」という選別が行われる。この二項分裂は,現在,あらゆる局面に見出されると言ってよいのではないか。

 

 生産性のある人間とない人間,

 感染している人間としていない人間,

 上級国民と下級国民,

 自国民と移民・外国人,

 補償すべき人間とすべきでない人間,

 人工呼吸器をつけるべき人とつけなくてもいい人,

 マスクを配るべき人と配らなくていい人,

 そして,ワクチンを接種すべき人と接種しなくていい人,

 等々…。

 

 こういう二元論を内側から食い破ることが必要なのだが,それは果たして可能なのか。

 

 人々は,「人口」の適切な水準と質を維持するために,耐えるべき時には耐え忍び,行動すべき時には行動するように求められている。権力は,もし自粛や休業要請に応じない個人や企業が出てきたとき,こういう「個人の群れ」を「人口」には属さず,国家システムを破壊する者たちであると認識し,「公衆衛生の敵」として排除するように働きかける。ここにおいて,主権権力(殺す権利)は生権力(生かす権力)に対して優勢・過剰となり,人種主義的な対応が出てくる。この状況で表に現れてきたのが,例えばトリコちゃんの言う「隣組予備軍」であり,または「自粛警察」である。「隣組予備軍」も「自粛警察」も,主権権力と人種主義を補完する「人口」的な勢力なのである。

 

 こういう人種主義的な二元論を克服するためにも,私たちの社会は「人口」ではなく「個人の群れ」であるとの認識が,まずは必要ではないか。トリコちゃんは「私たちは完璧じゃないからすぐ間違えてしまう」と言っている。木澤さんも「生それ自体を多数化し,相対化する他はない」と言っている。「人口」からは監視社会や権力に対する怒りも批判も生まれてこないだろう。フーコーが「自分自身からの離脱」と言っているそうだが,今私たちに求められているのはそれかもしれないと思った。「人口」の中で訓練され管理されて生きる生とは異なる,新たな生の形式が求められているのだろう。まあ,とりあえずは,もし「隣組」的なことをやりたくなったら,トリコちゃんも言うようにその怒りの原因をていねいにひもといて,首相官邸サイトの意見フォームに送ってみるのはどうだろう…。