誰が中村哲を殺したのか | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 アフガニスタンで中村哲さんが殺害された事件について,犯行グループがタリバンやIS残党である線は考えにくいが,では一体誰が,どんな組織が,何のために中村さんを殺したのか。いろいろな情報に当たってみると,犯人たちが中村さんをターゲットにしていたことは明らかなようである。しかしアフガン国内に中村さんを殺して得をする勢力がいるのだろうか。


 上の記事(「9条のサムライ、9条の詩人の死を悼む――誰が中村哲を殺したのか」)では,中村さんが憲法9条を象徴する存在であるが故に殺されたみたいなことが書いてあるのだが,ちょっと無理があるというか短絡的な印象を受ける。日本人としてそう言いたい気持ちはわかるのだが,ここはもう少し冷静に,現地アフガンに目を向けて考える必要があるだろう。

 9条主義の聖者だから中村哲は殺されたのであり、9条を信奉する平和主義者たちを叩きのめし、9条の精神を打ち砕くために、見せしめとして、中村哲をテロルで屠ったのだろう。

 この記事が言うように,もちろん中村さんが9条の理念を体現する存在であり,9条にこだわる私たちの精神的支柱であり希望の星であったことはその通りなのだが,残念ながらそこで思考が止まってしまい,ナイーブな文章になってしまっている。この筆者は今回の事件が「政治目的を持ったテロ」であると正しく認識しているのに,その政治目的を「9条粉砕」という日本的な文脈に限定して解釈しようとしている。

 まさに教条主義的な護憲派の典型のよう考察だったわけだが,9条にコミットする立場としては,もうちょっと掘り下げて考えてみる必要があるだろう。9条がなぜ生まれたのかと言えば,戦争である。一次,二次の近代戦争が9条を産み落とした。では近代の戦争はなぜ戦われたのか。戦われなければならなかったのはなぜなのか。根源的な原因を辿れば,近代的な国民国家の形成・発展であろう。さらにその近代国家の源を辿れば,キリスト教的な原理や価値観に行き着く。

 中村さんはキリスト教徒であったが,だから狙われたと言うのではない。そうではなくて,広い意味でのキリスト教的な価値観からすると,中村さんのような人道主義者,いわば聖人のような人物が殺される原因や理由がどうしても理解できないし,またそのような非道な行為を絶対に許せないという気持ちになる。私も「武器ではなく命の水を」「軍事より農業」という中村さんの信念に共鳴していたし,だからこそ犯人には憤りを覚える。

 しかしキリスト教的な人道支援によってアフガニスタンという国家が発展し,そこに住む国民が豊かになっていくのを快く思わない周縁や外側の人々,そういう発展を西欧的近代による支配の拡大,多様性の侵害と捉えるイスラムの人たちも,国内外にいるであろう。私たちが近代主義的な国家制度や民主主義,民族自決権という概念に留まっている限り,思想的には中東・イスラム支援は限界性を持つ。民間人による支援も規模が大きくなり,国家の庇護を受け,国家的事業に変質してしまえば,水利権や土地所有権をめぐって激しい憎悪やテロを引き起こすことも十分あり得るのではないかと思うのである。

 上の記事では「水利権」のことを「水利利権」と書いていて,そういうトラブルの情報はガセネタだと断じているが,この筆者は「水利(すいり)権」のことをよくわかっていないようだ。灌漑水利事業は居住民の権利に対する至って政治的な行為である。それがもはや民間・個人のレベルを超えた国家的行為と見なされ,テロの標的にされた可能性は十分あるだろう。

 中村さんは昨年アフガン政府から勲章を授与され,今年はアフガン名誉市民権の称号も受けたという。それが中村さん自身の本意かどうかは別として,中村さんは,いわばアフガニスタン国民になったわけである。イスラム原理主義的な立場から見れば,その「国民化」「権威化」が,アフガン国家とともに中村さんを完全な敵,反イスラムと見なす上での決定打になったことは十分に考えられる。

 ちなみに,中村さんは1996年に医療功労賞の受賞者として前の天皇・皇后に初めて会い,今年の茶会などにも招待され,アフガンの灌漑事業について夫婦に熱心に説明したという。いくらNGOに属する民間人とは言え中村さんほどの高徳な人格者で,国民支持もある人となれば,日本の国家側も放ってはおかない。何とかして権力内に取り込み,国民支配に利用しようと考えるのも当然であろう。

 イスラム教が国家や権威,栄誉,偶像崇拝を認めないことは言うまでもない。たとえ中村さんが一神教を信仰するキリスト教者であったとしても,ムスリム,特にイスラム原理主義者の間では,一神教を否定する偶像崇拝の国からやってきた反イスラム的人間と映ったかもしれない。こういう原理主義的な考え方をする人々の一部が,あらかじめ警告しておいたのにそれを無視して水利事業を続けたことは反イスラム的行為だと解釈し,テロに出た可能性は十分ある。

 近代的な価値観の中にいる私たちから見れば,多くの人を助ける人道的で平和的な活動に見えるものも,特定の部族や集落,あるいは宗教原理主義にとっては自らのアイデンティティを破壊する活動に映り,彼ら・彼女らの逆鱗に触れてしまったのだろうか。特にアフガンのような複雑に多様な民族・部族・宗派が入り組んだ国・地域を支援することは本当に難しいと感じる。

 自らがよって立つ場所(=国民国家)に根本的な疑いの眼を向けてみること――このことがテロや紛争を恒常的に生み出すシステムを理解する上で肝要な視点であると,今回の事件を受けて改めて強く感じた。自らに内在する「国民化」への懐疑なくして,イスラム世界の問題を理解できないし,テロリズムをなくすこともできないであろう…。