宮台真司のネトウヨ化にビックリ!~「表現の不自由展」をめぐって~ | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…



 今回の「表現の不自由展」をめぐって,先日朝日新聞に載った宮台先生の論評があまりにも的外れで酷い内容なので,上にアップしておいた。残念なことだが,我らが宮台先生の知的劣化と御用学者化はもう誰にも止めらないようだ。

 ここで彼が一番言いたいことは,三段目のところに書かれてあるように,今回の「表現の不自由展」が「特定の政治的価値に沿う作品ばかり」で,こういう風に政治的文脈に埋没したらアートではない,という点であろう。要はアートに政治性を持ち込んではならない,というのである。政治になびけば,「日常に媚びたパブリックアート」に堕する。アートは,社会の外の「非日常」を示すことで,人々を政治的対立から解放するんだ,と。

 そもそも,例えば今回の「平和の少女像」はどういう特定の政治的価値に沿った作品だというのだろうか。おそらくは日本の戦時の加害行為を告発するという左翼的な価値観に凝り固まった作品だと言いたいのだろう。だが,あの多面的な彫刻作品をそういう一面的な見方で評価してしまっていいのだろうか。そういう評価は,「少女像」を韓国人の偏見による「反日プロパガンダ」「ヘイト作品」と見なす歴史修正主義者やネトウヨ識者のそれと何ら変わらない。

 今回の「表現の不自由展」は,「慰安婦(戦時性奴隷)などいなかった」「南京大虐殺もなかった」と主張して,中国や韓国に歴史認識の「戦い」を挑んだ「歴史戦」の継続となっている。宮台さんも,その「歴史戦」に参戦し,歴史修正主義に加勢しているわけだが,そのことに本人はよく気づいていないのである。

 「歴史戦」の特徴は,何といっても歴史研究の分野に国家間の対立という政治を持ち込んでいる点である,アートに政治を持ち込むなと言っている当人が,実際は,アート展を舞台に繰り広げられる政治的な「歴史戦」に参戦し,国家対立を煽っているのだから,自家撞着もはなはだしい。宮台さんも,産経新聞系の識者と変わらないほどに劣化してしまったということであろう。

 多面的な特徴を持つ作品を特定の政治性だけで解釈し,それを宣伝し,世論を誤誘導する。宮台さんのやっていることは,極右政治家や歴史修正主義者と何ら変わらないのである。しかも,この論評の最後のセンテンスでは,民衆や政治家の劣化だけでなく,芸術家の劣化も世界中にさらしたと言っている。ここで言う「芸術家」とは,「少女像」を制作した韓国人彫刻家を暗に指しているのだろう。これは韓国人への侮辱に当たる発言だ。ここまで来ると,宮台さんもレイシズム政治家・杉田水脈と変わらないレベルにまで堕ちたと言うよりほかない。

 さらに公共の芸術イベントには「観客教育」が必須とまで言っている。誰が何を教育するというのだろう。それは,公権力による表現の自由の統制に端緒を開くものではないか。アートにそんな上からの統制や教育は必要ないだろう。大切なのは表現の分野での権力の介入をできるだけ制限し,政治性や歴史性も含めた民衆の自由意志による作品を展示できる機会を増やしていくことだろう。

 歴史の反省や政治批判の文脈で表現する作品は,パブリックアートに相応しくないとして排除していけば,その先にどういう社会が待っているか。そのことを考える上で,例えば戦前の1940年代,高浜虚子が主導して,「花鳥諷詠」以外の,政治性・社会性を持った俳句を詠んだ俳人を次々に弾圧した「昭和俳句弾圧事件」が参考になるだろう。宮台さんが言っていることは,俳句は「花鳥諷詠」の掟に従って詠んでいればいいんだという虚子の主張とのアナロジーで見ることができる。虚子が軍部と協力して,「弾圧」という国家暴力に加担した疑いは濃厚であるわけだが,まあ宮台さんも似たようなことをやっているわけである。つまりアートから政治性を剥奪し,表現の自由をエロ・グロ表現だけに限定することで,権力による表現の統制や弾圧を正当化しようとしている。

 今は,まさに「昭和俳句弾圧事件」前夜,内心や表現の自由を統制するファシズムの前夜と言えよう。そういうファシズム前夜だからこそ,表現を突きつめれば政治とぶつからざるを得ないという必然性もあるのだが,権力側に立っているから,そのことを理解できず,一方的に政治的な作品だと決めつけて,その芸術としての価値を貶め排除しようとしているのだ。

 「平和の少女像」を政治の一面からしか見ようとしない宮台さんには,あの作品の制作者二人が,韓国軍によるベトナム人虐殺を問うた作品「ベトナム・ピエタ」を作った同じ韓国人彫刻家二人であることの意味を,たぶん一生,理解することはできないだろう。あの「少女像」は,単に韓国人の被害者意識で作られた反日ヘイト作品でも,左翼的政治観に埋没した作品でもないのだ。そのことを,鄭栄恒(チョン・ヨンファン)という人が先日の中日新聞・文化面で書かれていて,感銘を受けた。その寄稿文を下に載せておいたが,読めば,宮台さんの論評とは段違いのレベルであることに気づくでしょう。この二人の彫刻家は,戦争や植民地支配の犠牲となった民衆の立場から作品を発表してきたという。このような民衆の悲劇に眼を向けた芸術こそパブリックアートに相応しいし,芸術の原点だと私は思うのです…