ところで先日は,社会学者を詐称する古市憲寿の書いた小説が,前回に続いて今回も芥川賞の候補に挙がっているという情報を聞いて,愕然としたわけだが,これが日本文学の現状なのだろう。全体小説など出てくるはずもないのである。社会学者の作品としては,昨年『新潮』に載った岸政彦の「図書室」という中編小説を読んだのだが,何ともセンチメンタルで凡庸な私小説という印象だった。社会学者なら,自らの研究調査で掬い上げた社会の生々しい声や生をもっと作品に反映させてほしいと思う。要するに社会や歴史と対峙していない。自分の個の世界だけで閉じていて,社会と切れてしまっているのである。だから普遍性も永遠性も出てこない。何とこの「図書室」も三島賞の候補だそうで,こんなのが三島賞で大丈夫かという気がしてくる。
今,人間の生と世界の全体をとらえ表現する意志を持ち,闘っている作家は,金石範だけじゃないかと思う。済州島四・三事件を描いた大作『火山島』はまだ読んでいないのだが,『世界』に連載されていて4月に完結した「海の底から」は『火山島』の続編で,それを断続的に読んでいると,全体小説を志向する意志を感じ取ることができる。インタビューで金氏はこう言っている。
小説,特に長編の場合は,世界を把握しなければ個も把握できない。しかし,その世界を描くには,個を通してやらなければならない。個を尊重したところからでなければ,普遍性は得られない。
(中略)
個々の人々の存在が,全体を作っているし,個々の人々の中に,全体の宇宙が入っている。
(『世界』7月号p.239)
(中略)
個々の人々の存在が,全体を作っているし,個々の人々の中に,全体の宇宙が入っている。
(『世界』7月号p.239)
これが全体小説ということである。『火山島』も「海の底から」も,決して世界全体のことを書いているわけではない。今から70年ほど前,韓国南部の済州島で起こった大虐殺事件,済州島四・三事件のことを書いているのだが,しかし,その事件を通して,ひとつの世界の見方を提示している。それが世界性,世界的な広がりということである。
大虐殺といえば,もちろんナチスのユダヤ人虐殺があるし,ソ連のスターリン時代でも大粛清があった。フランクルの『夜と霧』にしても,ソルジェニーツィンの『収容所群島』にしても,描いているのは,ある意味では狭い収容所だけなのだが,同時に世界性や普遍性を獲得しているのである。金氏が言うように,徹底して個を尊重することで世界全体をとらえているのだ。金氏の『火山島』や「海の底から」も,描いているのは韓国と日本(済州島や対馬や大阪)だけだが,これも『夜と霧』や『収容所群島』と同じく,広い世界性や普遍性を獲得している。
ナチスはユダヤ人を裸にしてガス室に送り込んで,そのまま殺した。済州島では,すぐには殺さなかった。まるで大きなまな板の上に生きた人間を載せて乱切りにするように,ゆっくりと少しずつ殺していった。その叫び声が私には聞こえる。この怒りをどうすればいいのか,復讐をどうしてやろうかという気持ちが今もあります。 (『世界』7月号p.231)
そして,こういう作品が在日の作家から生まれたという点も重要であろう。日本人では書けない。在日だから書けたという面が色濃くあるように思う。金氏が済州島四・三事件を書く場合,日本語の拘束がある。つまり,「言語と作品社会の分裂」という事態が起こる。そこを超えたところに普遍性がある,という金氏の話に納得がいった
日本語の持つ音や形,日本語が持つ,伝統的な言葉の情感や表象が必ず伴ってくるので,それが作家に影響を与えるのです。それは日本の作家にとっては日本的なもので,日本の伝統であるかもしれないが,朝鮮人の作家の場合,逆にそれが自由や主体を奪う。朝鮮人作家が,日本語の呪縛をどう取り去るのか。ゲリラが敵の武器を自分の武器にして闘うようなものです。日本語に依りながら,日本語を超えるということ。・・・それは,文学の言葉として超える,つまり普遍性ということです。それがフィクションであり,想像力です。・・・行ったこともない,経験したこともない火山島の物語を,どうやって作り上げたのか,それは私が日本語から自由になったから書けたのです。
(『世界』7月号p.238)
(『世界』7月号p.238)
金氏が韓国で生まれ,そのまま韓国で育っていたら,済州島四・三事件を追跡した一連の作品群は生まれなかったのではないか。その点に関して,金氏が「書くことは闘いなのだ」と言っていることも重要である。1945年に朝鮮は解放され,その3年後に四・三事件が起こり,南北が分断された。「解放空間」と呼ばれる,大韓民国成立までの3年間の歴史が正しく検証・解明されていない。四・三事件の悲劇もきちんと記録・復元されていないのである。金氏の執筆活動というのは,そういう歴史の闇を暴くための闘争,「解放空間」をもう一度「解放」するための闘いであった。
書くことは闘いなのです。四・三事件という,五〇年間にわたって抹殺されてきた記憶と歴史が復活したことは,ひとつの勝利です。私はその勝利の実現に向けてフィクションを書き続けてきたのです。内部で軋轢が起ころうと,裏切り者と言われようと,書くということは闘いなのです。闘いが長期化するなら,作品も長期化しないといけない。 (『世界』7月号p.231)
韓国でも四・三事件を書いた作家たちはいます。中には傑作もあるけれど,私に言わせれば,気の抜けたものが多い。・・・こんなにやられた,こんなにひどい,こんなにかわいそう,という被害の物語なのです。それでは闘いにならない。逆に四・三事件の事件の事実を殺してしまう。四・三事件を経て,そこからどうするのかという,先につなげる視点がなかなか出てこない。 (同誌p.232)
「海の底から」というタイトルは,四・三事件で済州島沖の海に沈められた500名の人たちのことを思って付けられたらしいが,韓国・済州島では今でも,この海上虐殺のことを「水葬」という言葉で表現しているのだという。いまだに虐殺した側の視点に立っているのだ。韓国はこの半世紀の間,権力に飼い慣らされ,服従してきた歴史がある。金氏は小説を書くことで,そういう歴史や社会と闘ってきた。それが文在寅政権ができて少し変わり,新しい社会づくりや真の歴史の清算に取り組んでいる。四・三事件の検証もその中に含まれている。
ちゃんと歴史に向き合っていないという点では,前回記事で書いた中国も同じで,例えば文革の検証・研究は今の中国では禁止されてしまっている。そして,ここ日本も同じであろう。先の戦争や植民地支配,南京大虐殺,慰安婦,強制連行などの歴史問題に正面から向き合い精算しようとしない。そういう戦争犯罪人の側に立った歴史認識や態度を改め,乗り越えない限り,例えば韓国は徴用工問題では「植民地支配違法論」にもとづいて半永久的に賠償請求を止めないだろうし,それを日本が拒み続け,しかも輸出規制・経済制裁という報復措置で対抗するならば,いずれ「戦争」という最悪の事態が待ち受けているだろう。
今,テレビ番組(BS-TBS「報道1930」)で自民党の松川るいが,韓国への輸出規制について「韓国は自分の胸に手を当てて考えろ!」とか「韓国は考えを改めなさい!」とか「日本はずっと我慢してきた!」とか,韓国に敵意むき出しの発言をしているが,こういう嫌韓的・差別的・歴史修正主義的態度が問題なのである。自分の胸に手を当てて考えるのはお前の方だろう。こういう,歴史に学ばず,外交センスもない政治家や官僚が日本を孤立化させ,暴走させるのである。前回記事でも引用した郭于華さんが言うように「歴史への態度は,未来を規定する」のだ。

私は金氏のインタビューを読んでいて,こういう負の歴史に真剣に向き合い,闘う中でしか,本物の全体小説というのは生まれてこないだろうと思った。野間宏の大作『青春の環』も,それ自体は大阪の被差別部落の青年を描いたものだったが,同時にこの世の全体を描こうとしていた。そういう歴史や現実に向き合おうとしない今の日本人からは,『火山島』のような全体小説は生まれるべくもないのである。
『火山島』の主人公・李芳根の生き方は「支配されず,支配せず」だった。この生き方も,この作品の普遍性を裏づけるものとなっている。李芳根という個人の生き方に「全体の宇宙」の広がりがある…
李芳根のモットーは「支配されず,支配しない」ということでした。すなわちこれは自由であるということです。それは平等の精神でもある。自由で平等な精神は,他者の命を脅かすことはしないのです。 (『世界』7月号p.239)
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