さて最近,新聞などのマスコミに出てくる偉い学者さんや評論家の方々の書いたものを読んでいると,どうも現状認識が甘いというか,ちょっとピントがずれてるんじゃないかと思う言説が多くて,クレームをつけたくなる。具体例として,最近ちょっと気になった記事を2つスキャンして,下に載せておいた。中日新聞(東京新聞)でさえこの程度だから,日本の世論は今後どういう方向に進んでいくのか,何だか思いやられる。このまま行けば,社会の右傾化に一層拍車がかかり,言論は自己責任論へと統合されていくであろう。

例えば,この「ネット右翼」の記事にしても,ちょっと楽観的過ぎるんじゃないかと思うわけである。ネット右翼が生まれる地盤として,戦前から日本社会の底流にある全体主義を指摘しているのは良いのだが,その一方でネット右翼を民主主義の一形態と見ているのである。ネット右翼は確かに一つの政治的立場ではあるが,極端に愛国的・排外的な言動で全体主義化に棹さす連中を,民主主義を作る一つの勢力と見ていいのかどうか。この記事で言われている「民主主義」の意味がはっきりしないのだが,民主主義を多様な市民や民衆を主体にした運動や制度と考えるなら,ネット右翼というのは,逆にそうした民主主義の理念や多様な社会づくりを破壊する勢力ではないかと思うのである。
日本に極右政党が台頭しないのは当然であって,今の与党・自民党がすでにネット右翼の主張を取り入れて極右政党化しているからである。ネット右翼は,完全に権力の支持母体,安倍応援団になっている。札付きの極右政党である日本維新の会も,自民党の補完勢力として取り込まれているわけで,新たな極右政党が台頭する余地は今の日本にはない。かつての自民党は右から左まで幅広い層を受け入れる懐の深さを持っていたが,それも今は昔で,近年は日本会議などの極右勢力を後ろ盾にして急速に極右化している。このことは,例えば極右政治家・杉田水脈の遍歴(みんなの党→維新の会→自民党)を見ればわかりやすい。そういう点では,この特集記事は当たり前のことしか言っていないし,どちらかというとネット右翼や極右勢力に同情的・肯定的とすら読める。権力と一体化しているネット右翼に対してこんな甘い見方・分析でいいのかと疑問が湧いてくる。

水無田気流さんの「社会時評」にしても,いい線は行っているのだが,詰めが甘いというか,踏み込みが今一歩浅くて,結局は当たり障りのない論説になっている。「無敵の人(無属の人)」や「8050問題」をもはや家族だけでは解決できないという結論は妥当だが,読者としてはもう少し踏み込んだ意見を聞きたいのである。つまり,家族に責任を押しつけている今の社会の仕組みがおかしいわけで,その点に関してもっと批判的な議論を聞きたいわけである。この「家族」社会の背後には,古い家族観を基礎に戦前的な社会体制にヴァージョンアップしたい復古的な極右勢力(日本会議・神道政治連盟・神社本庁など)がいるわけであろう。そういうところを指摘しないと御用学者も同然だと思うんですけどね。。
(なお,その点では山崎雅弘さんの『日本会議』は優れている。国家神道を拠り所にした戦前の体制と重ね合わせて,日本会議と安倍政権が改憲に突き進む動機を解明している。)
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「引きこもり=犯罪予備軍」「自殺するなら一人で死ぬべき」「引きこもりの息子を殺した父親は正しい」といった認識の広まりが,「社会的排除に苦しむすべての人々の現状を,『自己責任』論へと収斂しかねない」と,せっかく重要なことを示唆しているのに,水無田さんはそれ以上,踏み込もうとしない。つまり,こういう自己責任論や引きこもりバッシングを背後で操っている政治勢力や御用メディアを追及しようとしない。
私の不満をひと言で言うなら,これらの記事には極右化に対する危機意識が極めて薄く,極右政権と対決する姿勢が欠けているということである。まったく腰砕けのヘタレなのだ。民主主義の一つの表れだなどと言っておだてていると,ネット右翼はますます図に乗ってネットや現実社会にのさばり,排外的・差別的な主張を連ねて,極右政権の基盤をより盤石なものにするであろう。そうなれば,引きこもりやニートの原因や社会復帰を考えるよりも,「自己責任」というマジックワードで一括して彼ら・彼女らの切り捨て・抹殺を,政権側が選択するであろうことは目に見えている。このままネット右翼が放置され,極右化が進めば,「自業自得の透析患者は殺せ」という長谷川豊の暴言は,もはや暴言としてではなく,極右政権の論理として社会に通用することになるであろう。そういう極右暗黒社会をもたらす自己責任論と対決し,そのやいばをへし折ることこそ,今のメディアや言論に課せられた一番の役割だと思うんですけどねぇ…。