矢野久美子『ハンナ・アーレント――「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 『現代に生きるファシズム』(小学館新書)という本の冒頭で佐藤優さんが「世界をファシズムという妖怪が徘徊している」と述べたことについて,私は先日の記事で佐藤さん自身がその妖怪の一人だと述べた。だが,よく考えてみると,妖怪に相応しいのは,佐藤さんより,もう一人の著者である片山杜秀さんの方ではないかと思えてきた。それは,片山さんがこの本の最後に書いた「補遣 ファシズムについての私的メモ」を読むとよくわかる。ここには,片山さんのファシズム理解の特徴がよく表れている。すなわち片山さんは,ファシズムについて,その危険性は認めながらも,資本主義の危機を乗り越える上での必要悪として位置づけ,イタリアのファシズムをモデルに「完成されたファシズム」を志向しているようなのである。(なお,あとで時間があったら,片山さんが書いた数ページの「補遣」部分をスキャンしてアメンバー記事にアップしておくので,読んでみて下さい。)

 佐藤さんもそうだが,片山さんのファシズム論の最大の欠点は,全体主義との差異にこだわるあまり,その危険性の認識が甘いところである。ひと言で言えば,ファシズムとの対決姿勢,批判原理がないということである。この『現代に生きるファシズム』での二人の対談には,今日取り上げるハンナ・アーレントへの言及が一回しかない。たぶん二人はあまりアーレントを読んでないんじゃないか。読んでいたとしても,全体主義と対決したアーレントからはほとんど何も学んでいないのだろう。だから,ああいうファシズムについての楽観的で肯定的な評価になる。

 『全体主義の起源』や『人間の条件』などアーレントの著作は,確かに読んでもなかなか理解しにくいのだが,掲題の矢野久美子さんの本は,アーレントの思考の軌跡をその生涯に沿って忠実に描き出していて,アーレントを知るには格好の入門書である。特に,ハイデガーやヤスパース,ベンヤミンをはじめ多くの友人たちとの交流が丹念に綴られていて,彼女にとって人々との具体的なつながりがいかに大切であったかがよくわかる。

 さて,私たちがアーレントから学ぶべきは,まず第一に全体主義に徹底して抵抗する姿勢であろう。佐藤さんや片山さんがアーレントから全く学んでいないと思うのは,その点なのである。

 全体主義との対決―――アーレントはそれを彼女自身の仕方で果たさなければならなかったし,それこそがハイデガーと出会った自分の人生を肯定しつつ,その意味を理解するための作業にもなる。アーレントは,ハイデガーに学びつつもそれを内側から批判する独自の思考を展開していった。

 アーレントは,「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」という三部構成からなる代表作『全体主義の起源』について,その表題を「全体主義の諸要素」にすべきだったと後悔したが,その理由が大変興味深かった。つまり,全体主義を「理解」しようとするアーレントの方法は,抵抗の方法でもあったのである。

  アーレントは強制収容所というかたちで結晶化した現象の諸要素を,それらが具体的に現れた歴史的文脈のなかで分析し,語った。反ユダヤ主義」や「帝国主義」の部で語られる諸要素は,けっして必然的に全体主義へと直結するわけではない。アーレントの叙述を注意深く読むと,そこには行為者かつ受苦者としての人間の選択のあり方,動き方が描かれている。別の可能性もありえた,それなのにどうしてこのような事態にいたってしまったのか,ということを考えさせる物語なのである。それは,要素を明らかにすることによって,それらの要素が再びなんらかの形で全体主義へと結晶化しようとする時点で,人びとに思考と抵抗を促すような,理解の試みでもあった。(本書p.107)

 そして,アーレントの全体主義批判の原理は「人間の複数性」という点に求められよう。片山さんは「束ね,束ねられる」ファシズムによって個人の自由を担保するというようなことを言っているが,政治にとって,「人間の複数性」を目に見える形で保証することが何より大切である。だが,人々を一つに束ねようとするファシズムはその複数性を見えなくさせ,最終的に全体主義に結びつく。そこでは世界の複数性は抹消され,個性や自発性は「余計な存在」とされて,人間は「交換可能な魂」になる。

 人びとを人間として「余計な者」にすること,多様でそれぞれが唯一無二の人びとが地上に存在するという人間の複数性を否定することが,全体主義の悪であった。
 (中略)
 アーレントはナチズムやスターリニズムの終焉後も生き残りうる「全体主義的な解決法」(複数性の抹消)にたいして警告を発しつづけたのだった。

 (本書p.114~p.115)

 アーレントにとって「人間的であること」は,たとえそれが摩擦や敵対を生み出すものであっても,複数の人びとが「あいだ」の領域である世界に生きることにほかならなかった。・・・
 ・・・複数の視点が存在する領域の外部にある真理は,善いものであろうと悪いものであろうと,非人間的なものだ,と彼女は言い切る。なぜなら,それは突如として人間を一枚岩の単一の意見にまとめ,単数の人間,一つの種族だけが地上に住むかのような事態を生じさせる恐れがあるからである。

 (本書p.179~p.180)

 ところで,アーレントが元ナチ高官のアイヒマン裁判について論じたこと(「イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」)は有名だが,これによってアーレントは大切な友人の多くを失った。アイヒマンを「怪物的な悪の権化」と断罪したかったユダヤ人社会の意向には背く形で,アーレントはアイヒマンを,紋切り型の官僚用語を繰り返すだけの「思考の欠如した凡庸な男」として描き,しかも一部のユダヤ人組織のナチス協力にも触れたからである。同じユダヤ人でありながら,アイヒマンを擁護する反ユダヤ主義者,反イスラエルの政治哲学者というレッテルがアーレントには貼られ,攻撃に晒される。

 しかしアーレントがアイヒマン論争で訴えたかったことは,ユダヤ人迫害への道徳的怒りは共有するとしても,ユダヤ人などの特定の集合的なアイデンティティーに自己を埋没させてしまうことの危険性であった。それは,単なる思考停止ではなく,「思考の欠如」をもたらすのだ。言い換えれば「人間の複数性」という,世界にとって最も大切なものが脅かされる,と考えたのである。

 思考に動きがなくなり,疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を,アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び,全体主義の特徴と見なしたのである。
 「思考の動き」のためには,予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ,あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて,思考の自由な運動は可能になる。

 (本書p.174)


 『現代に生きるファシズム』で佐藤・片山が論じたファシズム論というのは,まさにアーレントが警告を発し続けた「全体主義的な解決法」であろう。ファシズムや全体主義の今日性について何らかの示唆を受けたいと望むなら,わかりやすくてスラスラ読める佐藤・片山の『現代に生きるファシズム』よりも,難しくて読みにくいけれども強靱でラディカルな思考の詰まった矢野さんの『ハンナ・アーレント』の方が断然有益である。国家や戦争という概念が再びせり出し,ポピュリズムが政治に決定的な力を持ちつつある今日,「人間の複数性」を思考し続けたアーレントから学ぶことは多い。佐藤さんと片山さんとの妖怪対談では,アーレントのいう「理解」には到底,達し得ないのである。

 彼女にとって理解とは,現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく,「注意深く直面し,抵抗すること」であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく,既知のものと起こったことの新奇な点とを区別し,考え抜くことであった。(本書p.105)

 彼女は,人間は誰しも新参者あるいはよそ者として生まれ,その世界を理解することによって,世界と和解すると考えた。「理解することは、生きることの人間的なあり方である」,「この理解の過程を切り詰めてはならない」と彼女は書く。それは,現実を手放してはならない,という信念でもあった。(本書p.ⅱ)