70ページほどの小冊子ではあるが,五輪開催をめぐる事実が幅広く網羅されている上に,深い考察で問題点や矛盾点を詳らかにしていて,実に内容が濃い。これを読めば,2020年の東京大会がいかに矛盾に満ちた問題の多い大会であるかがわかるだろう。ところで,東京都内の小中高などすべての公立学校では,東京都教育委員会が作成した『オリンピック・パラリンピック学習読本』なる副読本を使って,オリンピック・パラリンピックに積極的に参加することを肯定する教育が実施(強制)されているらしい。しかも,同時に国旗・国歌を尊重する感情・態度を児童や生徒たちが学ぶ内容にもなっているという。子供たちの思想信条の自由や人権を重んじるなら,そういう偏ったテキストだけでなく,本書のような優れたブックレットを併用し,オリンピックの問題点や開催の是非を考えさせるのがバランスのとれた教育であろう。私が教師ならそうするが,そんなことをしたら一発で解雇なのだろう。ただし本書は,ちょっと文章表現や内容が難しいので,子供たち向けに,もう少し易しくかみ砕いたものにする必要がある。
朝鮮学校を高校無償化から除外する理由として,よく北朝鮮の偏向した教育があげられるが,実は東京都はそれ以上に偏向した,ナショナリズムをすり込む教育をやっているわけである。オリンピックがもたらした負の側面に一切触れようとしないアンフェアな教育で,「フェアプレーの精神」なんぞ教えることができるのか。こんな欺瞞に満ちたオリ・パラ教本できれい事だけを教え込まれる子供たちが,私は可哀想でならない。
さて,掲題のブックレットでは,オリンピック開催の問題点を
(1)東日本大震災からの「復興」と経済効果
(2)参加と感動
(3)暴力とコンプライアンス
(4)言論の自主統制と社会のコントロール
という4つの側面から検証している。ごく簡単に紹介すると,(1)では復興や経済効果を謳うこのオリンピックが欺瞞だらけであること,(2)では「参加」という名の「動員」によってオリンピックが行われること,(3)ではコンプライアンスの名の下にオリンピックがスポーツ全般を支配してしまうこと,(4)でオリンピックが言論の自由を奪い社会をコントロールしてしまうことを,それぞれ結論として引き出している。さらには,大会組織委員会は競技場の警備を強化するため,防衛省に自衛隊の協力を要請したという。「平和の祭典」で軍事プレゼンスが増すという矛盾に私たちは目をつぶってはならないだろう。
感動と興奮は時代を光り輝かせるかもしれないが,目をつぶってしまってはいけない闇をさらなる暗がりに追いやることになる。(本書p.70)
私が本書を通読して最もこだわりたいと思った論点は,このオリンピックが
「死者と忘却と排除」
を足場に作られるメガ・イベントだという点である。
二〇一七年四月,その(新国立競技場)建設現場の地盤改良工事の現場監督だった青年(当時二三歳)が,自殺体で発見された。残された自筆のメモには,突貫工事を強いられるなかでの長時間労働,残業,現場での不正確な指示により,「身も心も限界」だと書いてあったという。・・・
(中略)
過酷な条件に耐えられず絶たれた命の上に,新国立競技場は立つわけである。・・・東日本大震災で命を落とした人たちや,死者たちへの服喪を終えられていない人たちに対して,オリンピックを強行することで「復興」を突きつけるのならば,それは死者の上にイヴェントを作り上げようとしているということではないだろうか。
(本書p.12~p.14)
(中略)
過酷な条件に耐えられず絶たれた命の上に,新国立競技場は立つわけである。・・・東日本大震災で命を落とした人たちや,死者たちへの服喪を終えられていない人たちに対して,オリンピックを強行することで「復興」を突きつけるのならば,それは死者の上にイヴェントを作り上げようとしているということではないだろうか。
(本書p.12~p.14)
人命を犠牲にして作られる新国立競技場でオリンピックが開催されることに対して,主催者であるのIOCをはじめ,JOCや東京都,政府はどう答えるのか。
また,過去のオリンピックも多くの人々の犠牲の上に行われてきたことを忘れてはいけないだろう。本書でもいくつかの事例が挙げられているが,例えば1968年のメキシコ大会では,開催の10日前に自由と民主化を訴える学生や市民らのデモ隊に警察や軍隊が発砲するという「トラテロルコの虐殺」が起きた。死者300人以上とも言われる虐殺であったが,公表されることのないまま,何事もなかったかのようにメキシコ市内は沈静化され,オリンピックは粛々と開催された。
この大会に出場したあるイタリア人選手は,「オリンピックを開催できるようにと学生が殺されているのなら,オリンピックなど行われないほうがましだ。どんなオリンピックも,歴代のオリンピックを合わせても,学生ひとりの命に値しない」と述べている。(本書p.30)
ここ日本でも,オリンピックでの金メダル獲得という重圧でマラソン選手の円谷幸吉が自ら命を絶ったことはよく知られている。だが,それはオリンピック開催の是非とは切れたところで,一アスリートの悲劇もしくは名誉の死として美化されて描かれている。元マラソン選手の瀬古利彦があるテレビ番組で,「自分もロサンゼルス・オリンピック出場の時に重圧に押しつぶされそうになって,円谷さんの気持ちが痛いほどわかった」と語っていたが,残念ながらその経験はオリンピックに対する疑義,異論には繋がっていかない。今では瀬古は,東京オリンピックに向けたマラソン強化戦略プロジェクトのリーダーに収まっている。やれやれ,といったところである。
スポーツ批評家の川本信正は,円谷はスポーツ界に蔓延するオリンピック至上主義と自衛隊体育学校という閉鎖された環境に圧殺されたと見ている。川本によれば,「オリンピック至上主義とは,オリンピックの理想を賛美する精神ではなく,オリンピックに参加して,一つでも多くのメダルを獲得して国威を誇示しようとする勝利主義―――偏狭なナショナリズムそのもの」なのである。円谷の葬儀が行われた同じ日,岸記念体育館では,冬季グルノーブル大会へ出場する選手団の結団式があった。そこで日本体育協会会長や文部相が「国民の期待にこたえよ」「諸君の挙動は世界が注目している」とメダル獲得に駆り立てた。国民の期待に応えようと必死に走り,死んでいった円谷のことが語られることはなかった。(本書p.39~p.40)
前回記事で書いたように柳田国男が構想した戦後の社会秩序は死者を含めたものであったが,オリンピックというのはそれとは逆に,死者を足蹴にし,貧困者やマイノリティを排除することで成り立つイベントなのだ。
2020年の東京大会では,「みんなでオリンピックを盛り上げよう」「みんなで成功させよう」という合言葉のもと,芸能人や元オリンピック選手などを使って,私たちに積極的・自発的な「参加」を呼びかけているが,この「みんなで」という言葉がマジックワードであって,すでに全ての人がオリンピックの積極的な機運の中に参加しているような気分にさせられていく。「みんなはすでに参加しているのだから,もっと積極的に関わろう」と促される。歌手の椎名林檎が「国民全員が組織委員会」と言えば,「なるほど」と頷いてしまう。そのように「参加」が前提で動いている状況では,オリンピックそのものへの疑問や反対意見は出しにくくなる。こうして「みんなで」という枠組みは,いつしか「感動」を共有することを通じて,私たちを包摂し「国民」へと統合していく。
東京大会では多数のボランティアが募集されているわけだが,上記のように「みんなで参加しよう」という掛け声の下に行われる人の集め方も,一つの「動員」の方法であることを,私たちは見逃してはいけない。強制的に動員されているわけではないと思わされているが,この「参加」も何らかの力で人々を駆り立て集結させる「動員」にほかならないのだ。東京大会ボランティアに応募した人たちは,実は自発的に参加したのではなく,動員されたのである。この点の認識が重要である。
本書では,このように「みんなで」を合言葉に,「感動」を共有することを通じて人々を自発的に参加へ駆り立てる動員の力を
「参加型権力」
と呼んでいる。この権力が「オリンピックの外部」というものを想定していない点は特に重要である。2020年東京大会では,もはや「オリンピックの外部」など存在しないのだ。オリンピックにみんなが参加するという空間が実現するためには,「トラテロルコの虐殺」のように,政府やオリンピックに反対する活動家は弾圧され,オリンピック費用や会場建設のために貧民やマイノリティは排除されねばならない。格差是正や貧困対策のための予算は,オリンピックに横取りされていく。「みんなで参加」という立派な理念・スローガンは,実は「排除」によって支えられたものなのである!
「みんなで盛り上げよう」と参加を鼓舞する二〇二〇年東京大会は,その陰で,「みんな」という枠組みに入れない人たちを生み出し,強制的に排除しているのだ。
(中略)
・・・こうした「排除」「弾圧」「軍事化」が基礎にあって,参加型権力は勢いよく駆動しているのである。
(本書p.32~p.33)
(中略)
・・・こうした「排除」「弾圧」「軍事化」が基礎にあって,参加型権力は勢いよく駆動しているのである。
(本書p.32~p.33)
オリンピックに反対しこれを断念させるには,「参加型権力」に巻き込まれずに,これを打ち倒していくことが不可欠である。この「参加型権力」とは,翻って考えてみれば,「下からのファシズム」と同じ構造を持つものであろう。ファシズムを突き動かした動員には,上から強制的に国民を動員する方法(上からのファシズム)だけでなく,自ら積極的に参加しファシズムを国民の側から盛り上げていく仕組み(下からのファシズム)もあった。「参加型権力」とは,ファシズムを生み出す動員なのである。
このように見てくると,昨今の憲法改正論議でも「参加型権力」が作動しているのではないかと思えてくる。いわゆる保守の改憲派もリベラルの護憲派も,「みんなで」すでに憲法改正に参加しているという前提で動いているように見えるのである。現憲法は「もう古い」「時代に合わなくなってきた」と何となく思わされ,憲法改正に自発的な参加=動員を促されている。憲法改正で何らかの提案を出さなければ,政治に無関心だとか,主権者意識がないとされがちな,おかしな空気がある。そこには「憲法改正の外部」を否定する強い力が働いている。
そのことを,私はリベラル側が新9条や立憲的改憲などを言い始めた頃から感じていた。今や憲法を変えないという意見・選択はあり得ないものとされている。「参加型権力」によって,護憲は時代錯誤の過激派か非国民というレッテルを貼られ,無視されるか排除され,議論に入れない状況がある。右でも左でも,とにかく憲法は変えなくてはいけないという流れで政治も世論も動いていることに,私はもの凄く危機感を覚えるのである。これでは戦前回帰的な改憲を目指す政権側の思うつぼではないか。
改憲案の内容に大きな違いはあるとしても,「憲法を変えよう」という旗の下にみんなが束ねられている。これって改憲ファシズムですよねぇ。
オリンピックにしても改憲にしても,「参加型権力」=「下からのファシズム」に飲み込まれることなく,それに抗して,ダメなものはダメ,こんなものは「いらない」とはっきり断らなくてはいけません...。
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