このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって,その代わりに,無機的な,からっぽな,ニュートラルな,中間色の,富裕な,抜け目がない,或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと,私は口をきく気にもなれなくなっているである。
(「果たし得ていない約束」)
(菅孝行『三島由紀夫と天皇』平凡社新書p.246)橋下のようなエセ天皇主義者こそ,三島が「口をきく気にもなれない」人物の典型だろうと思う。三島にとって天皇が天皇であるのは,天照の末裔である現人神であるからだ。大嘗会と天照大神が直結する神権的,非個人的な性格を天皇から剥奪したのが,戦後の神道指令であり象徴天皇制である。アメリカの占領政策によって生身の「人間」に成り下がり,二・二六蹶起将校や特攻隊兵士を裏切った天皇は,三島の考える天皇ではない。上の引用で三島が吐露している「『日本』はなくなってしまうのではないか」という言葉は,つまり天皇が天皇でなくなってしまうのではないかという危惧の表明にほかならない。
もしも三島が明仁天皇の例の人間的でリベラルな「ビデオメッセージ」(2016年8月8日)を聞いたらどう思うだろうか。日本は日本でなくなった,天皇制は完全に終わった,と失望すること間違いない。逆に橋下は,こういう「おことば」とか,被災地訪問などの「おつとめ」といった,天皇の人間的な言動が国民の支持を得て,国民・大衆の天皇になったことを脳天気に喜んでいるのである。
かつては天皇と国民(まだ国民という概念がなかったときから)は身分制度によって明確に分けられたり、天皇は神そのものと位置付けられたりしたこともあった。
このときには、万世一系、脈々と繋がる天皇制の制度自身に強烈な権威が存在した。そこでは天皇の人間性というものが捨象される。つまり、天皇から臣民・国民への具体的な想い・行為の中に、臣民・国民が敬慕の念を抱くという明確な関係がなかった。臣民・国民は、ただただ天皇の権威にひれ伏すだけだった。
しかし今は、陛下のお人柄や「おつとめ」「被災地お見舞い」などの具体的な象徴としての行動が、国民の陛下に対する敬慕の念の柱になっていることは間違いない。
この点、日本の国柄として天皇制をことさら強調する、いわゆる保守政治家・保守論客に限って、陛下のお人柄や具体的行動を無視し、天皇制という制度だけを重視する。すなわち陛下の人間性を全く無視するんだよね。
(橋下徹「天皇制維持のために必要なこと」)
このときには、万世一系、脈々と繋がる天皇制の制度自身に強烈な権威が存在した。そこでは天皇の人間性というものが捨象される。つまり、天皇から臣民・国民への具体的な想い・行為の中に、臣民・国民が敬慕の念を抱くという明確な関係がなかった。臣民・国民は、ただただ天皇の権威にひれ伏すだけだった。
しかし今は、陛下のお人柄や「おつとめ」「被災地お見舞い」などの具体的な象徴としての行動が、国民の陛下に対する敬慕の念の柱になっていることは間違いない。
この点、日本の国柄として天皇制をことさら強調する、いわゆる保守政治家・保守論客に限って、陛下のお人柄や具体的行動を無視し、天皇制という制度だけを重視する。すなわち陛下の人間性を全く無視するんだよね。
(橋下徹「天皇制維持のために必要なこと」)
このように明仁個人の人柄や人間性をことさら強調して天皇制の意義を説く橋下の天皇論は,三島が最も嫌悪した天皇論であり,だから橋下のようなエセ右翼とは絶対に口をききたくないと言うはずなのである。
それに対して,意外に思われるかもしれないが,天皇暗殺を狙った東アジア反日武装戦線と三島との相性は結構いい。その点を掲題の本が指摘していて興味深かった。こういう理解もあり得るのか,と意表を突かれた感じを受けた。
東アジア反日武装戦線の一グループ「狼」が天皇に爆弾テロを加えようとしたが未遂に終わり,その爆薬が三菱重工爆破に使われ,一般人に多くの被害者が出たことはよく知られている。彼ら・彼女らは何を問いかけたのか。日本の左翼の中で,戦前(軍事)から戦後(経済)にかけての日本の侵略性の継続という事態に最も真摯に向き合ったのがこの東アジア反日武装戦線であったことは否定できない。彼ら・彼女らは,アジアからの怒りに満ちた眼差しを引き受けながら,戦後アメリカによって延命させてもらった天皇制国家の欺瞞と,その上に築かれた繁栄を撃とうとした。
天皇制国家の欺瞞への怒りという点で,この東アジア反日武装戦線の爆弾闘争と三島の「自刃」とは重なり合う,と本書は言うのだ。もちろん天皇制をめぐる立場は,両者では決定的に異なる。すなわち三島は理想の天皇制が終わったと認識しているのに対して,東アジア反日武装戦線は許しがたい天皇制が戦後も継続していると見ている。だが,敗戦処理のトリックが生み出した戦後史の欺瞞に怒りをもって立ち向かおうとした点では,両者は共鳴しているのである。
三島は「それでもいいと思っている人たち」が作り上げた「口をきく気にもなれな」い「富裕な,抜け目がない,或る経済的大国」に「自刃」をもって問いかけ,東アジア反日武装戦線は天皇と三菱重工にテロをしかけた。無理にこじつけなくても,両者の意図に欺瞞への怒りという重なり合いがあることは一目瞭然ではないか。(本書p.246)
三島の支持者は「反日」と一緒にされれば汚らわしいと言うだろう。「反日」の支持者は三島ごときと一緒にするなと拒否するだろう。だが,彼らがともに身を挺して権力の犯罪を白日の下に晒そうとしたそのことこそが,後世に残すべき共通の歴史的価値なのである。(本書p.249)
本書では藤田省三の「買弁天皇制」という見方も紹介されていて,慧眼だと思わざるを得なかった。「買弁」とは,「自国の同胞の利益を損なっても、他国の資本に奉仕することで利益を貪る資本のこと」である。そして,ここで言う「他国の資本」とは,具体的にはアメリカ資本のことにほかならない。藤田の目には,敗戦後の天皇制国家がアメリカ資本に奉仕することで利益を貪る統治形態に見えたということである。この天皇制国家の「買弁化」は今もって全く変わっていない。
アメリカは暗に対米従属を認めた天皇制国家に便宜を供与した。最たるものが,アジア諸国への戦後補償の円払いの斡旋であろう。・・・これによって賠償という名の日本企業のアジアへの進出がはじまる。まさにアメリカに庇護された日本経済の復興・「自立」の出発である。(本書p.140)
白井聡が指摘するように,アメリカはそのたびに「どちらが主人なのか」を天皇と日本政府に思い知らせたのである。「買弁天皇制」国家日本は,長きにわたって,アメリカの便宜供与と恫喝によって制御されてきた。(本書p.143)
三島が敵視したのは,こういう天皇制の「買弁化」であり,アメリカが作った「戦後体制の全部」であった。敗戦後74年,三島の死後から50年近くたった現在,この国の対米隷属はもはや手の施しようのないところまで来てしまったように見える。ところで,ここ数年で白井聡さんや矢部宏冶さんなどが対米従属史観とでもいうべき歴史観を著書で披露し,そういう見方が良心的な読者の間でようやく定着しつつあるように思える。三島論ではないが,昨年出た高橋敏夫氏の松本清張論(『松本清張「隠蔽と暴露」の作家』集英社新書)も,昨今の対米従属史観の流れに沿ったものと言えよう。まさにその対米従属史観の先駆が三島だったということである。こう見ると,三島の異議申し立てのモチーフというのは優れて先駆的であり,今日ますます現実味を帯びてきたと言わざるを得ない。
大切なのは,戦後のはじまりにあった,「国体」延命のための天皇の詐術の総体を誰よりも早く直観し,詐術の帰結としての戦後体制二十五年の欺瞞を常に自らの創作モチーフとして引き受け,最後にその集大成を自らの死と引き換えに天皇裕仁に突きつけた作家がいたということである。(本書p.216)
ぼくはそうやすやすと敵の手には乗りません。敵というのは,政府であり,自民党であり,戦後体制の全部ですよ。社会党も共産党も含まれています。ぼくにとっては(……)まったく同じものです。どちらも偽善の象徴ですから。……いまに見ていてください。ぼくがどういうことをやるか。(大笑)
対談実施日は一九七〇年の十一月十八日,決行の一週間前である。三島は間違いなく,二十五日の行動を念頭に語っている。(本書p.206)
対談実施日は一九七〇年の十一月十八日,決行の一週間前である。三島は間違いなく,二十五日の行動を念頭に語っている。(本書p.206)
一九七〇年の十一月二十五日,(中略)三島たちが撒いた「檄」にはこうある。
沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば,左派のいふ如く,自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであろう。
(以下,略)
〈自衛隊がアメリカの傭兵になる〉という「檄」の指摘は,今日の視点から見るとまことに正鵠を射ている。・・・
・・・三島たちの言動が呼びかけている先は,自衛隊員でも東部方面総督でもなく,三島が許容し難いと考えた戦後秩序の堕落の総体の責任を負う天皇裕仁であったと私は考えている。(本書p.210)
沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば,左派のいふ如く,自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであろう。
(以下,略)
〈自衛隊がアメリカの傭兵になる〉という「檄」の指摘は,今日の視点から見るとまことに正鵠を射ている。・・・
・・・三島たちの言動が呼びかけている先は,自衛隊員でも東部方面総督でもなく,三島が許容し難いと考えた戦後秩序の堕落の総体の責任を負う天皇裕仁であったと私は考えている。(本書p.210)
こういう三島の直観の先駆性や鋭い洞察力と比べると,橋下の天皇論がいかに幼稚で欺瞞的なものかがわかるだろう。私は,橋下の天皇論が三島の洞察した戦後天皇制の欺瞞を隠蔽し,人々を思考停止状態に陥れようとする意図が透けて見えて,許し難いのである。そもそも私は三島由紀夫の文学自体が好きではないし,『憂国』とか『英霊の声』などの右翼的志向には抵抗を覚えるのだが,橋下の言説はそれとは次元が違って,ポピュリズムとしての天皇利用という側面が色濃くあり,そのためにファシズムに発展する危険性を強く感じるのである。その点では,天皇制を政治利用し,売国的・買弁的改憲を行おうとする安倍政権や日本会議勢力と同工異曲だ。三島の「檄」は高度成長下の日本人には響かなかったが,橋下のメルマガや講演などでの天皇制礼賛は,現在のネトウヨ化し国粋化した世論には受け入れやすい。しかも今年は「改元」という国家的イベントもあり,橋下が垂れ流す単純な天皇制礼賛が拡散することが懸念される。
内閣とそれを支える勢力は,まさに,三島がかつて,「口をきく気にもなれない」と,なかば諦念ととともに述べた人々のなれの果てである。(本書p.257)
彼らの資質は,二・二六「蹶起」が掲げた天皇親政のイデオロギーを換骨奪胎して,政権を私物化した軍部主流と酷似している。彼らには,支配と利権保全の欲望しかない。身を挺しても守ろうとする,絶対的な価値がない。三島が生きていたら,この改憲派たちと「口をきく気にもなれない」だろう。(本書p.268~p.269)
橋下や安倍政権=日本会議・神道政治連盟だけの問題でなはい。天皇制をめぐって事態は錯綜している。いわゆるリベラル・護憲の側では,明仁天皇の立場に心を寄せ,象徴天皇を前提とした民主主義・平和を構想する者が多い。逆に,反天皇の側では,親米保守の安倍政権とリベラル・護憲の明仁天皇の間に相克を認めず,両者は共謀して戦前回帰を推し進めようとしていると見る。そういう認識に立って,天皇制を是として憲法三原則を守ろうとするリベラル・護憲派をすべて敵に回すのである。
この分裂・錯綜した状況の中で三島由紀夫はどういう意味を持っているのだろうか。本書を書いた菅孝行氏は,かつては反天皇の論陣を張る評論家であったが,その菅氏が三島のほぼ全作品を徹底的に読み解き,こういう大胆で危険な三島論を書いたのはなぜなのか。私は本書を読み進めるうちに,菅氏は内田樹のように天皇主義者に転向したのではないかと疑い始めたのだが,最終章「三島由紀夫を遠く離れて」を読んで,それが早とちりであることに気づいた。菅孝行はやはり菅孝行であったのだ。だが,原理主義的な反天皇主義ではない。三島由紀夫を「否定的な媒介」とした反天皇制,反君主制の立場なのである。
三島と東アジア反日武装戦線との共鳴については先ほど述べたが,最終章では三島と明仁天皇が共通の志を持っていたと説かれており,正直驚いた。1970年11月25日の三島の自刃と2016年8月8日の天皇メッセージを結びつけ,そこを「否定的な媒介」として天皇制を乗り越える必要がある,というのが本書でのひとまずの結論であり,また,そこが隣人同士の相互信認の社会を作り上げる出発点にもなるのだという。
今日の記事の最初の方で私は,三島は明仁天皇の生前退位を求める「ビデオメッセージ(おことば)」を聞いたなら絶望を深めただろうという趣旨のことを書いた。だが他方で,明仁天皇は,国益を擲ってまで買弁的な改憲をしようとする政権と親米保守勢力に対して,最大限の抵抗を試みたといえる。菅氏に言わせれば,それは「政治的敗北を覚悟した上で」の「悲劇的人物による高度の確信犯的〈愚行〉」であった。その点で三島と響き合うというのだ。
職業的宿命から,天皇の発言は極めて抑制的であったが,示唆されるものは明白だった。それは天皇制を道具として利用する権力と権力を容認する主権者への,「権威」の座にある者の反逆である。
(中略)
全くベクトルは違うけれども,悲劇的人物による高度に確信犯的な〈愚行〉であるというその一点で,この問いかけは,三島由紀夫の自刃と共軛なのではないか。
(本書p.273)
(中略)
全くベクトルは違うけれども,悲劇的人物による高度に確信犯的な〈愚行〉であるというその一点で,この問いかけは,三島由紀夫の自刃と共軛なのではないか。
(本書p.273)
彼らはほぼ同じ敵を見据えている。三島が見ていたのは「奴ら」,つまり利権を手にした親米保守層である。明仁天皇が見ているのは,「奴ら」のなれの果てである。(本書p.278)
ここまで三島と明仁天皇に入れ込みながら,菅氏は「ミイラ取りがミイラになる」という愚を犯さなかった。菅氏は「君主個人の人格がよしんばどれほど優れていても,君主制が正しいことにはならない」と言う。その通りだと思った。制度と人格は峻別して考えるべきだ。天皇制の下で明仁天皇は「個人」たりえない。君主制は究極的には,人間の尊厳は平等であるべきだという近代思想と対立する。また,天皇の霊性,国家の霊性は,国家の外の人々と繋がることを阻害する。
三島は,戦後天皇制国家の欺瞞は見抜けても,それが日本国家の外部の人々,とりわけ旧大東亜共栄圏の民衆から,どのように見られているかに気づくことはできなかった。つまり外部から見れば,戦後の民主主義国家・日本は,武器を札束に持ち替えただけの侵略的天皇制国家であることに変わりなかったのである。そういう視座を三島が持ち得なかったたことの根源は,天皇の霊性,国家の霊性への崇拝にほかならない。また,象徴天皇制の永続を願う明仁天皇が天皇の霊性を守る使命感を持っていることは言うまでもない。
だから私たちは,三島由紀夫と明仁天皇を「否定的な媒介」にして,天皇制の外に出なくてはならないのである。「否定的」というのは,彼らが国家の霊性を絶対的に信仰しているからだ。彼らを満たす霊的な価値の外でしか,彼らの衝いた欺瞞から解放されることはあり得ない。
本書を読んだ率直な感想として,天皇制の本質や矛盾が三島の文学を通してこんなにもクッキリと見えてくるとは驚愕であった。そして,天皇制を超えた先の共和制国家にも国家の霊性は宿るということを指摘することも,菅氏は忘れない(トランプのアメリカやプーチンのロシア,習近平の中国を見よ!)。人々を呪縛する国家の霊性との闘いは永続する!そのことの自覚を促す本書は,橋下の高額なメルマガよりも何万倍も読む価値がある。天皇制に対して峻烈な批判を突きつけてきた批評家,菅孝行は健在なりと思った次第である。
われわれは,三島の〈自刃〉と明仁天皇の「おことば」を「否定的な媒介」として君主制を超え,国家の文化的価値による呪縛を超える筋道を探らなければならない…。(本書p.276~p.277)
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