ところで,「右翼」と聞いてどんなことをイメージするだろうか。偏見を承知で言うと,かつて私が右翼に抱いていたイメージは,「恐い」「うるさい」「街宣車」「軍歌」といったところに留まっていた。その後,歳を重ねても,「天皇」「テロリズム」「二・二六事件」「靖国神社」などが付け加わったぐらい。そういうイメージはある程度当たってはいるのだが,それが右翼の全てではない。右翼は巷で思われている以上に多様である。本書はそうした右翼の多様性を戦後史に沿って描き出す。
著者は,右翼とは距離を置き,全体的に厳しい視線で見ているが,とは言え,そういう多様な右翼を全否定しているわけではない。共感するものがなければ,こうした優れたノンフィクションやルポルタージュは書けないだろう。例えば,筆者は本書の冒頭で,右翼活動家・野村秋介の「民族の触角」という言葉を引いていて,ドキッとさせられる。筆者はこの野村に日本右翼の本流を見ているようだ。
プロレタリアートの前衛たる左翼に対して,右翼を「民族の触角」と表現したのは民族派の重鎮として知られた野村秋介だった。
時代への感受性と,危機に直面した際の順応性を,野村は火事場の半鐘に喩えた。
尻込みしない。素早く駆け付ける。人々の命を守るために自らが盾となる。必要とあらば,そのための暴力でさえ肯定した。人々の素朴な心情に寄り添うのが右翼だと説いた。
「弱いものが強いものに抗するための暴力が必要な時はある。だが,一般の人に体を張れと言うことはできない。そのために民族運動家がある」
それが野村の持論だった。実際,野村は大資本には容赦なく戦いを挑んだが,在日コリアンなどマイノリティに対する差別は許さなかった。
日本の右翼には右翼としての”正史”がある。欧米列強に立ち向かい、財閥の腐敗に憤り、農村の疲弊に涙した。まさに民族の触角として危機を感受し続けてきた。
(本書p.3)
時代への感受性と,危機に直面した際の順応性を,野村は火事場の半鐘に喩えた。
尻込みしない。素早く駆け付ける。人々の命を守るために自らが盾となる。必要とあらば,そのための暴力でさえ肯定した。人々の素朴な心情に寄り添うのが右翼だと説いた。
「弱いものが強いものに抗するための暴力が必要な時はある。だが,一般の人に体を張れと言うことはできない。そのために民族運動家がある」
それが野村の持論だった。実際,野村は大資本には容赦なく戦いを挑んだが,在日コリアンなどマイノリティに対する差別は許さなかった。
日本の右翼には右翼としての”正史”がある。欧米列強に立ち向かい、財閥の腐敗に憤り、農村の疲弊に涙した。まさに民族の触角として危機を感受し続けてきた。
(本書p.3)
だが,野村の言う「民族の触角」が「安直なポピュリズム」に転落する危険性を内包していることは,言うまでもない。
いま,右翼がどれほどの大義を掲げていたとしても,燃料としているのは憎悪と排他に満ちた社会の”気分”である。触刺激を受けてひっきりなしに打ち鳴らされる半鐘は,差別扇動の囃し太鼓になりかねない。(本書p.5)
現在の右翼が陥っているのが,まさに醜悪な形のポピュリズムである。いまや右翼とネトウヨの境界は液状化し,両者は融合しているというのが,筆者の見立てだ。すなわち,差別的で排外的で攻撃的な主張や行動において,両者に違いはない。しかも国家権力の補完勢力という点でも両者は共通の地盤に立っている。右翼とネトウヨの融合――この点に現在の極右化の到達点を見た筆者の分析眼は鋭い。今年2月に起きた朝鮮総連中央本部への銃撃事件は,まさに両者の融合を象徴するような事件だ。また,沖縄での基地反対運動に地元右翼とネトウヨが一緒になって襲撃するケースがあることもよく耳にする。
政府や識者が社会の気分をつくり,煽り,右翼が暴力を示唆し,ネトウヨがそれに快哉を叫ぶ。繋がっている。続いている。そこには垣根も段差もない。(本書p.6)
そう,かつて右翼とネトウヨとの間に厳然と存在した垣根は,もはやないに等しい。共闘するばかりか,実際には右翼とネトウヨの双方を軸足とするような「相互乗り入れ」のメンバーも存在する。差別と排他の気分に満ち満ちた極右の空気は,右派陣営をも丸ごと飲み込んでしまっているのだ。(本書p.269)
ヘイトスピーチに反対したり,在日駐留米軍に異を唱えたり,また韓国の慰安婦を訪ねて日本の戦争責任を学んだりする右翼も本書に紹介されていたが,そうした右翼人は現状では右翼の主流ではない。また,反米・自主独立を掲げる一水会代表・木村三浩の「権力に対して闘うのが右翼だ」(本書p.268)という発言も引かれていたが,今この木村の主張に同調する右翼=ネトウヨは,残念ながら皆無に近いであろう。
本書の「おわりに」では,右翼団体「花瑛塾」に所属する仲村之菊という人が紹介されていた。彼女は沖縄に常駐し,基地建設反対を唱える演説を長く続けているのだという。彼女の考え方はこうだ。
右翼は国体護持を主張しながら,沖縄に米軍が駐留しているこの現実に大きな関心を寄せていない。いまでも米軍の占領下にあるのと同じことではないですか。民族派を自称するのであれば,他国の軍隊が日本に居座っている状態に異を唱えて当然です。
(中略)
中国の脅威というが,沖縄を苦しめているのは米軍の脅威ですよ。この上さらに不平等な日米地位協定を容認するなど,できるわけありません。
(本書p.275)
(中略)
中国の脅威というが,沖縄を苦しめているのは米軍の脅威ですよ。この上さらに不平等な日米地位協定を容認するなど,できるわけありません。
(本書p.275)
このような主張や運動は,今の右翼の中では異端でしかない。私はもちろんこのような「国体護持」とか「民族派」といった立場を取らないが,だがそれも一つの考え方であることは否定しない。そういった右翼本来の立場に立つならば,仲村さんの主張は真っ当なものだ。こういう正論が右翼の主流になるべきだと思う。民族差別やマイノリティ排除を煽るだけの存在が右翼ではない。もともと右翼は,社会の矛盾,不公平・不平等に立ち向かうことで自らの存在感を高めていったのではなかったか。それが今や,国家権力の手足として振る舞い,マイノリティを攻撃するだけの存在に成り下がっている。筆者も言うように,右翼はもう一度足元をしっかり見つめ直し,「在野に留まり権力と対峙する存在であるべき」(p.278)であろう。
足元を見つめるという意味では,筆者が共感を寄せていた石原莞爾(関東軍作戦参謀)とその側近であった武田邦太郎の思想・運動が重要であろう。満州事変を画策した石原ではあったが,日中戦争の拡大,中国侵略には反対した。石原が目指したのは,どの国からも干渉を受けない「五族協和」の独立国(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人が共同で暮らす社会)をつくることであったという。そこに支配服従の関係はあってはならなかった。だから石原は朝鮮半島の植民地統治にも反対した。だが,日本は一方的に植民地政策を推し進めようとしたため,石原は徐々に政治の枠外へ追いやられ,戦時中は危険人物として憲兵の監視下にも置かれた。戦後,石原は山形県・鳥海山麓で,差別も搾取もない自給自足の農村共同体づくりを試みたという(本書第二章,参照)。
石原は1949年に亡くなるが,石原の側近でその遺志を継いだのが武田であった。武田は,「東亜諸民族の団結と協力で政界平和を目指す」という石原の理想を広めるために協和党という右翼団体をつくった。それは天皇中心の世界を打ち出した点では右翼であったが,同時に再軍備には反対し,搾取のない社会,アジア諸国の連帯を目指すとした。一種のユートピア思想である。「反共」一辺倒の戦後右翼の中では異色である。こんな右翼団体があったのかと,隔世の感がした。
戦争放棄をうたった憲法9条の遵守を誓った右翼など,この時代に協和党をおいてほかにない。(本書p.114)
戦後初の右翼によるクーデター未遂事件とされる,1961年の「三無事件」に関わった古賀良洋という人の話も印象に残った。「愛国」「救国」の思いからクーデターに加わった古賀だが,晩年は,戦時中に地元・飯塚市(福岡県)の炭鉱などで命を落とした朝鮮人労働者の供養に奔走したという。
「異国の地で亡くなった朝鮮人の無念を思うと,日本人としての責任を感じる」
彼は私にそう語った。地元に住む在日コリアンの信望も厚い人物であった。
そうした生き方を選んだ「国士」もいたのである。
(本書p.151)
彼は私にそう語った。地元に住む在日コリアンの信望も厚い人物であった。
そうした生き方を選んだ「国士」もいたのである。
(本書p.151)
戦前から敗戦後10年くらいまでは,現代のリベラル以上に寛容で前衛的な政策や運動を実践する,こうした右翼が存在していたのだ。だが,その後,右翼は政治との結びつきを強めて国家権力の暴力装置として振る舞うばかりか,暴力団とも結びつくなど,見るべきものがない。
それから昨今の右傾化を語る上で欠かせないのが,1997年に「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の二つの右派団体が合併して発足した日本会議の存在である。日本会議については最近多くの書物が出ているので,本書に特に目新しいものはないが,日本会議が街宣車や暴力ではなく,草の根運動を進めたことが躍進の原因だと評価している点は重要だろう。運動論では日本会議は従来の右翼からは脱皮し,むしろ「連帯と団結,地方から中央へ」という左翼的な方法論に多くを学んだようだ。いわゆる街宣右翼が「制服を着た右翼」なら,日本会議は「背広を着た右翼」と形容される。すなわち日本会議は,集会や署名活動,地方議会への陳情,国会議員の囲い込みなど,地道な活動によって大衆の中に入り込み,改憲をはじめとする彼ら・彼女らの右翼的な主張を社会に浸透させていった。その成果が国旗国歌法の制定であり,教育基本法の改正であり,歴史修正主義的な歴史教科書の採択であった。
「国のために死ねる――といった,それまでの右翼にありがちだったメンタリティは,その頃から時代遅れになりました。それ以後の運動の流れは,かつての左翼がやってきたように,連帯と連携を意識しながら,大衆運動を盛り上げる方向へとシフトしていきます」(元一水会代表・鈴木邦夫)(本書p.214)
大衆運動は,数百台の街宣車にも勝るのである。(本書p.219)
日本会議の草の根的運動などによって押し進められた右傾化の流れに乗って,ネット右翼(ネトウヨ)という新たな層が湧いてきた。在特会に代表されるネット右翼勢力はヘイトスピーチをまき散らし,差別的・排外的な気分を煽った。かつてははっきり一線を画していた右翼とネトウヨの境界線は見えなくなり,「差別と排他の気分に満ち満ちた極右の空気が,右派陣営を丸ごと飲み込んでしまっている」(p.269)。
右翼とネトウヨの右派大連合が今,日本社会のメインストリームである。右翼勢力はいまや極右政権の番犬として,反体制派市民や弱者に対して威嚇し攻撃するだけの存在に成り果てた。筆者が本書末尾で書いているように,「私たちは右翼の大海原で生きている」(本書p.272)。この現状認識がまずは大切であろう。その上で,この極右化した社会を打ち破る道を探っていかねばならない。
ところで,安田さんは優れた文章家だ。印象に残った箇所を一つだけ引用しておきたい。先に紹介した武田邦太郎に取材したときの様子を書いた部分である。安田さんは右翼とは距離を置いていると先ほど書いたが,石原莞爾やこの武田邦太郎に対してはかなりシンパシーを抱いているようだった。それが文章に表れていた。山桜の咲く山頂で石原莞爾の墓の「墓守」をしていた武田が「靖国神社のソメイヨシノが好きではない」と言ったことに対して,安田さんはこう書いている。保守の真髄を見事に言い表している。
武田は勇ましい言葉で国民を煽る右派勢力をソメイヨシノにたとえ,それをやんわりと批判したのだった。霞がふわっと湧きたつような山桜こそが,保守の風景だ。人の手を入れず,自然に任せ,歴史の風雪に耐えたものだけが生き残る。それが武田の訴えた日本の姿である。石原が夢見た差別も搾取もない理想郷=五族協和の満州も,本来,そうした姿を目指していたはずだった。土に親しみ,太陽を崇めていけば,それだけで人は幸せになれるという思想である。(本書p.115)
こういう右翼人もいたのである。右翼とはいっても単色に塗りつぶされた世界ではなかった。その点,本書から大いに学んだ。だが,いまやネトウヨを含む右翼は,ヘイトスピーチと大本営発表を大音量で叫び散らす拡声器となり,社会を差別と憎悪に満ちた極右一色に染め上げようとしている。
「私たちは右翼の大海原に生きている」とは決して誇張した表現ではない。そんな大海原の荒波に飲み込まれないためにも,右翼は何なのかを知る必要がある。右翼を知ることは,今の日本を知ることでもある。「極右化」という現在の日本の姿を知る上でお勧めの一冊です。
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目次
序 章 前史――日本右翼の源流
第一章 消えゆく戦前右翼
第二章 反米から「親米・反共」へ
第三章 政治・暴力組織との融合
第四章 新右翼の誕生
第五章 宗教右派の台頭と日本会議の躍進
第六章 ネット右翼の跋扈