「生産性の向上」と社会福祉 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)



 何回読んでも素晴らしい記事なので,リブログさせてもらったのだが,本記事は,国家試験対策としてだけでなく,安倍政権対策,あるいは日本の社会福祉の<傾向と対策>としても読んでもらいたいと思う。

 詳しい内容は是非本記事を読んでいただきたいが,重要な点は,国会議員の杉田ミオがLGBTに対して発言して問題になっている「生産性」なる概念が,度重なる法改正,制度改正によって社会福祉の分野にも取り込まれているということである。社会福祉は本来,市場経済の外側にあって,「生産性」とか「効率」といった基準には馴染まない分野のはずだが,その枠組みを決める法律に,そういう市場原理的(新自由主義的)な「労働生産性」という文言が入ってきたことに,私は底知れぬ気持ち悪さ,恐ろしさを覚えるわけである。そして,本記事の筆者もおっしゃっている通り,この一連の法改正には現政権が日本をどんな社会にしたいかがはっきり表れている。それは,ひと言で言えば,「生産性」概念の導入によって福祉を最小限に抑え込もうという「最小福祉主義」の社会である。

 私が特に問題にしたいのは,介護の分野にも「生産性の向上」なる考え方が入り込んできた点である。本記事によれば,『平成30年度 介護報酬改定に関する審議報告』には,「生産性の向上を通じた労働負担の軽減」などを柱にして,介護人材の確保に取り組むと書かれている。

 これを読んで私が思ったのは,介護分野でできる限り無駄を排除して生産性・効率アップを目指すというこの方向性は,
家族による介護,在宅介護の推進
という方針とセットだということである。介護労働の生産性向上も介護人材確保も,家族に介護を代替させることで達成できる。自民党が改憲によって復活を目指す家父長制的な家族というのは,介護の生産性向上という矛盾した超難問も,一挙に力ずくで解決してくれるとっておきの切り札なのである。

【自民党改憲草案】
 家族は,社会の自然かつ基礎的な単位として,尊重される。家族は,互いに助け合わなければならない

 ここにあるように,自民党改憲草案では,「家族は,互いに助け合わなければならない」というかなり強い義務規定になっている。親の面倒は子どもが見るべきだという古めかしい家族道徳に乗っかって,介護は家族がするのが当たり前だという観念をすり込もうとしているわけで,こういう家族観も,国が社会保障責任を放棄した自己責任論の世界である。そこには,弱い人や困っている人を社会全体で支え助けようという観点が抜け落ちている。本当にこの国は「社会福祉」という思想が根づかないなと,つくづく思う。介護に「生産性」原理を無理やりねじ込もうとしているところに如実に表れているように,福祉を市場原理や自己責任にゆだねることになんの抵抗も違和感も覚えないのである。いまや日本の「社会福祉」は,「市場福祉」とでもいうべき恐ろしい実態に陥っていると言える。

 私は,制度設計者をはじめ,この国の支配者が介護保険制度で一番やりたかったのは,おそらくは下の赤で囲った部分ではないかと思っている。すなわち,
同居の家族がいる場合は,基本的に利用できない!
これは当初はなかった規定だが,これが基本路線となって,これからも介護は,同居の家族に負担させる方向で進んでいくだろう。だが,その先に待っているものは何か。容易に想像できるように,介護する者とされる者の共倒れである。



 こういう家族による介護が首尾よく機能するのは,いわゆるお金持ちの大家族だけだろう。老老介護や,独身の子どもが親を介護するようなケースでは,要介護レベルが上がれば上がるほど,仕事と介護の両立は不可能となり,共倒れが避けられなくなる。ウチも私が母親と同居しているため,訪問介護サービスが受けられないから,訪問看護を頼んでいるのだが,こっちは単価が高いから,そんなにたくさんは受けられない。要介護1や2までなら何とか家族一人で介護できるが,要介護3や4になったら,家族一人では限界がある。そんなことはちょっと想像すればわかるはずだが,介護の生産性向上という国家的至上命題(幻想)がそうした想像力の発動を阻んでいるのだろう。ちなみに施設介護を望んでも,特養(特別養護老人ホーム)は圧倒的に足りないし,有料老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅などは費用が高く,庶民にはなかなか利用しにくいのが現状である。

 さて,介護の生産性という矛盾した観点から見ると,介護労働で最も効率が悪く,生産性が低いのは,家族のいない独身高齢者のケースである。だから,できるだけ高齢者の単身世帯をつくらないためにも,「産めよ!殖やせ!」で旧来の家父長制的な大家族をつくることが国家的に推奨されるわけである。したがって当然,LGBTカップルなど,家族の多様なあり方は否定されるし,そもそも結婚しない人,家族をつくらない人は人間失格の烙印を押されるわけである。

 私も将来は独居老人になるつもりでいるが,そういう生き方は好まれない。というか,そういう独身高齢者は生きていてもらっては困るという価値観やしくみが今,つくられつつあるのである。結婚をせず,子どもをつくらなかったかできなかった時点で,彼ら彼女らに人権はない。この世に生きる権利や意味を剥奪されるのである。つまり,介護に生産性という観点を導入するということは,家族に面倒を見てもらえない独身老人はできるだけ早く死んでくれ,というメッセージを発しているのと同じなのである。その意味では,この国の支配者たちは,独身高齢者を抹殺してくれる第二,第三の植松聖が現れるのを待ち望んでいるのだろう。まあ,このまま介護の生産性などを追い求めていけば,そういうことになるでしょうね...