
オウムの一斉大量処刑にによって,この社会はいっそう処罰依存を強めていくだろうという星野氏の見方に,私は完全に同意する。星野氏が言うように,「報復的な処罰感情」を満たすような死刑のあり方は,憎悪の連鎖,終わりなき暴力をもたらすにちがいない。今回の大量処刑で,倫理的な歯止めや社会規範的なリミッターは完全に破壊されたのではないかと私は思う。つまり,これからは憎悪と暴力が堰を切ったように,社会のあらゆる場面で繰り返しあふれ出してくるのではないかと恐れるのである。
星野氏は,「形を変えた(オウムの)再現が始まった」と結んでいるが,私なりに敷衍して述べさせてもらうなら,この「再現」とは,「私刑」の氾濫ということになるのではないか。死刑が国家権力の行使であるのに対して,私刑とは私的な集団組織・個人による制裁・処罰である。そういう(オウムのような)私的な集団が,恣意的で偏った信仰や基準でもって次々に人々へ制裁や暴力を加えてゆく状況が社会を覆うのではないか。そのように極めて悲観的な見立てをせざるを得ないのである。
死刑廃止によって私刑が増加するのではないかという言説は,ちょっと因果関係を取り違えている。むしろ国家権力による死刑の乱用が,人びとの復讐感情を煽り,人命・人権感覚を麻痺させることで,私刑の増加,規模拡大を招くのだ。
関東大震災での朝鮮人大虐殺も,はじめは国家権力がデマを流して口火を切ったのだが,それが瞬く間に,自警団と称する民間組織や一般市民の間に広がり,そうした民間人が虐殺に加担していったわけである。この朝鮮人大虐殺も,明治末の大逆事件大量死刑が発火点だった。これを転機にして,いわゆる「冬の時代」が始まり,社会主義やアナーキズムが弾圧され,大杉栄らアナーキストの虐殺や朝鮮人大虐殺につながっていったのである。
前回書いたように,今回のオウム大量処刑は,植松聖による障害者大量殺害を追認・肯定・支持する意味合いを持っていたわけで,その意味では,これを転機に,差別心や報復感情を充たすための私刑や制裁,虐殺が激増していくのではないか,と懸念するのである。杉田ミオのLGBT差別も,そういう流れの中に位置づけられる。というのも杉田ミオの言動には,自分個人の差別的で偏向した感情や解釈にもとづいて,自分とは異なるアイデンティティ(障害,病気,性的指向,人種・民族,出自など)を持った人間は徹底的には弾圧し排除し,最終的には抹殺してしまおうという意図を感じるからである。まさにあの差別発言は,LGBTの人たちへの「私刑」宣告に等しいもので,断じて許されるものではない。
そういった皆殺し社会を現出させる恐ろしい「毒」を,今回のオウム死刑は持っていたと言える。その「毒」を自覚できない社会を,星野氏は案じているのである。この深い憂慮を共有している人がどれだけいるだろうか。少なくとも村上春樹の議論には,大量死刑が恐ろしい「毒」を社会にまき散らしたという危機感は少しもない。
全般的に,オウムの死刑に関する議論を見ていると,オウムの異常性だけを取り上げて,自分たちとは無関係な事件として矮小化する傾向が著しいと思った。だから前代未聞の大量死刑に何も感じず,むしろ満足感や安堵を覚えたりもするのだろう。この感性や精神状態こそが,オウム的な「異常さ」なのである。自分の中に存在しているオウム的な「異常さ」に気づかない。言論を生業にする者であるなら,そういう一般の人たちが気づかない,社会の奥底にある真実を掘り起こし伝えることも大切な責務であろう。だが,村上春樹はじめ,日本の残念な物書き,言論人はそういう役割を放棄し,その代わりに第二,第三のオウムを育てているのである。
以前,丸山真男は「戦前・戦中は日本中がオウム真理教だった」と言っていたが,まさしく今は日本中がオウムであり,無差別テロや大虐殺がいつ起きても不思議ではない時代になったと言える。
下に,星野氏の寄稿から大切な一節を引いておくので,真剣に考えてほしいと思う。
私には,このように死刑を消費できる感性こそ,信者たちが無差別殺人を行えた精神状態に近いように映る。
今回のオウム大量処刑は,「無差別殺人を行える精神状態」に人々を改宗したのである...。