「射殺」という統治原理 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 麻生副総理の例の「武装難民を射殺」発言について,一人のたわけな差別主義者による個人的な妄言と受け取ってはいけないだろうと思う。妄言とか暴言というより,この「射殺」発言は本気だからである。彼はたぶん,難民が来たら本気で銃殺したいと思っている。彼は,朝鮮人や難民など人間とは思っていない。だから彼は朝鮮からの難民を〈武装→テロリスト〉と短絡的に理解する。

 麻生の祖父が経営していた麻生鉱業(炭鉱)は,朝鮮から労働者を強制連行してきて虫けらのようにこき使い,事故・病気・虐待などで夥しい人数の朝鮮人を殺してきた。麻生財閥は,いわば日本の朝鮮植民地統治に寄生し,朝鮮人の血を吸って肥え太ってきたのである。そういう戦前日本の暗黒面が,彼の差別的で,人命を尊重しない偏狭なパーソナリティの形成に影響を与えたことは否定できないだろう。だから強制連行や創氏改名などの事実を朝鮮人自らが望んだことだと平気で言ってのけられる。「90になってもまだ生きるのか」と高齢者を侮辱できる。従軍慰安婦の「河野談話」には真っ向反対し,手口や動機は正しかったとヒトラーを賞賛する。ちなみに,冤罪にもかかわらず死刑執行された飯塚事件も麻生の地元で起き,麻生が首相の時に死刑執行は行われた。麻生の周りには血生臭い話が尽きない。

 麻生にとって,国家は警察や自衛隊という実力組織と,死刑制度をはじめとする残虐な刑罰体系を備えた暴力機構以外の何物でもない。だから,「射殺」という暴力は,実は緊急事態で行使される特別な手段でも何でもなく,通常の統治において通常使われる手段と見なされている。「射殺」発言に対する世間の批判意見を見ていると,その点の認識がやや甘いように感じた。彼は本気である。本気で私たちを殺しにきている。そういう認識で私たちは麻生という暴力政治家に向き合わなくてはならないと思う。

 だが同時に,ある意味,麻生は実に正直である。自分の本心や考えを率直に口に出して言う。「射殺」発言にしても,それは言うまでもなく,関東大震災後に朝鮮人に対する恐怖や偏見を煽り立てるために権力側が垂れ流したデマと同根である。つまりは再びジェノサイドを慫慂しているわけである。その点では,関東大震災後の朝鮮人虐殺をなかったものとして否定した小池都知事と堅く結びついている。また,北朝鮮には対話や外交ではなく圧力や恫喝で対応すべきだとする安倍首相の強圧的で武力優先の姿勢は,共謀罪法制など国内統治にもそのまま当てはまるが,それは麻生の「射殺」原理そのものである。なお,そういう麻生や安倍の「射殺」という真意を忖度して,障害者の大量虐殺を実行したのが植松容疑者である。植松には国家犯罪の下手人という側面が少なからずあると私は思っている。

 明治以来,現在に至るまで日本の国家に,釣り糸のように一本ピーンと張って貫いている原理――それを麻生は吐露してくれている。その点を私たちは見逃してはいけないだろう。すなわちそれは,朝鮮人や難民,部落民,障害者,高齢者などは異分子・異物として徹底的に排除・殲滅せよという空恐ろしい「虐殺」の原理である。麻生風に言い換えれば,「射殺」の原理!。

 麻生も安倍も小池都知事も,そして日本会議に連なる連中は皆,警察・機動隊・自衛隊という強力な暴力組織を背景に「虐殺=射殺」の原理を共有し,大日本帝国・警察国家のリメイクを目論んでいる。もちろんそのためには,個人の人権や立憲主義に立つ今の憲法は邪魔である。だから憲法破壊へと進む。その論理を見ずに,9条改憲に反対か賛成かを議論するのは危険である。麻生発言をただ言語道断として斬り捨てるだけでは危ない。そこに示された民主主義破壊の論理を,私たちは見極めなければいけないと思うわけである。アベノミクスも特区補助金詐欺も消費税増税も,すべてその背後にはこの民主主義の破壊と個人の抹殺という大きな論理が控えている。

 「国難」とか「国家的危機」とか言って,危機を捏造・演出する政治家こそ,市民に思考停止と同調と黙従を強いるファシストだ。こんなジェノサイド容認の腐った政治家がこれからもトップに居続けるなら,もうこの国は終わりだ。希望などあるわけない。こういうゴロツキ政治家は私たち市民の手で撃ち倒すしかない。