国が朝鮮学校を高校授業料の実質無償化の対象にしなかったことについて、大阪・東大阪市にある朝鮮学校を運営する学校法人が違法だと訴えた裁判で、大阪地方裁判所は、学校側の訴えを認め、対象から除外した国の処分を取り消す判決を言い渡しました https://t.co/aYHZObn1h4
— ワルシャビャンカ (@Warszawianka985) 2017年7月28日
朝鮮学校をめぐる訴訟で司法が良識ある真っ当な判断を示してくれた。行政の"朝鮮学校いじめ"を司法が正した画期的な判決!
下村文科相が,朝鮮学校を無償化の対象外とする省令改正をしたのは,「教育の機会均等の確保」とは無関係な外交的・政治的判断に基づいたもので,「無償化に関する法律の趣旨を逸脱しており違法で無効だ」との裁判所の判断。全くその通りだという感想を持った。前にも書いたけれども,朝鮮学校に対する無償化除外や補助金カットをめぐる一連の訴訟が日本社会に突きつけているのは,外国人学校に学ぶ子どもたちの「教育を受ける権利」の問題であり,あるいは「差別」「人権」問題なのである。
日本で学ぶ子どもたちが等しく教育を受ける権利,また民族教育を受ける権利は,拉致問題や北朝鮮情勢など政治外交的な問題とは全く関係ない。朝鮮学校無償化の問題は,そういう政治外交的な判断とは切り離して,あくまで教育の機会均等の観点から判断すべきなのである。国は拉致問題など筋違いなことばかりを主張していて,話にならない。教育を受ける権利に差別はあってはならないという大前提に立つことを忘れてしまっている。
日本政府は朝鮮学校に対する差別的な扱いをやめて,朝鮮学校の生徒たちが安心して学べる教育環境づくりを進めていくべきなのである。だから,国は今回の判決を真面目に受けとめ,差別行政「朝鮮学校いじめ」について深く反省すべきであり,控訴などの悪あがきをしてはいけない。
『世界』8月号の記事(田中宏「司法は行政の"朝鮮学校いじめ"をただせるか」)には次のように書かれていて,全く同感である。この一連の裁判では,日本政府だけでなく,私たち市民の意識や振る舞いも問われているのだ。
けだし,「問われているのは,北朝鮮の振る舞いではない。日本のなかで生きる子どもたちを等しく処遇できない,私たち日本人の姿勢」(阿部浩己神奈川大学教授,『神奈川新聞』二〇一二年三月二五日)なのである。東京訴訟を準備するとき,文科省による処分の対象となった在校生のうち,数名が原告になって提訴するべく,弁護団は学校を訪れ,生徒・保護者を前に説明会を開いた。その結果,六二名が原告に名乗りを上げた。朝鮮学校での学びが否定されたことへの屈辱感,黙って泣き寝入りはできないとの尊厳をかけた想い,そして最後の砦としての日本の裁判所への期待がそこにはあったことが痛いほど伝わってきた。(『世界』8月号p.173)
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さて,こんな気分のいい日は,青空の下でザ・ブルーハーツ「青空」を歌いたい。差別にまみれた人間の汚い歴史とは対照的に,見上げた先に広がる青空はなんて美しいんだろう。青い空はだれにも共通だ,どこの国にもつながっている。青空は平等の象徴。だけど,そんな青空の下でも差別はなくならない。国境も人種の壁も宗教の対立も,溶けてなくなることはない。だから「僕」の憂鬱はいつまでたっても終わらない。こんなはずじゃなかったのに。切ないね。でも,いつか,青い空の真下でなら,きっとつながれる...。
この歌詞の「僕」とは誰だろう...