「〈真実なき時代〉に対抗する一冊~目取真俊『希望』~」(『文學界』7月号) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 客観的事実に基づかない発言をしてもそれを「オルタナ・ファクト」などと強弁するトランプ(やルペン)が「ポスト・トゥルース」と言うよりは,
あらゆる真理や事実を破壊し相対化するポストモダンの思想運動の行き着いた先が「ポスト・トゥルース」であると言った方が,今の状況を的確に表しているであろう。
すなわち,ポスト・トゥルース=ポストモダン!そういう理解でよいのではないかと私は思っている。

 つまるところポストモダンがトランプやルペンを生んだ!日本でも,平気でウソやインペイを繰り返してもその責任を問われず,いつまでも権力者の座に居座り続けている安倍や稲田のような政治家は,実はポストモダンの落とし胤なのだ。そう言って言い過ぎではないと思う。実際,トランプや安倍のブレーンがデリダを読んでいたとしても少しも不思議ではないだろう。

 掲題の特集記事で,かつてポストモダンの洗礼を受けた橘玲さんが
権力とたたかうための武器であったポモ(ポストモダン)が,いつのまにか権力に乗っ取られた
と書いているけれども,もともとポストモダンには権力につけ込まれる隙があったわけであろう。というか,元来ポモには権力批判が徹底できない素地があった。それは,哲学的には唯物論やマルクス主義の軽視に由来するが,端的に言えば,ポモは経済に弱いということである。その点が決定的だ。つまりポモの最大の欠陥は,体制批判的な経済学がないことである。

 ここで注目すべきなのは,日本でのポストモダン・ブームの火付け役となった浅田彰さんでさえ,プレグジットやトランプ現象をめぐって,「経済」や「実証」を重視しているということである。浅田さんはもともと経済畑の出身ということもあるが,浅田さんのそういう良質な部分を後継者たちは大事に受け継いでこなかったがために,「権力に乗っ取られた」という状況が生まれたのではないか。マルクスやニーチェの真理に対する懐疑的立場をちゃんと理解し,その先にポスト構造主義を見ている点で浅田さんの議論は,東さんや千葉さんより,よっぽどまともなのである

浅田 経済的な矛盾によって民族主義が駆り立てられる。その意味では、ぼくは古い唯物論者なんです。

浅田 例えばトランプの演説に対して、いつどこで正反対のことを喋っていた、という確実な情報を出すことはできる。

浅田 誤解を避けるために強調しておくと、もちろん実証可能な範囲ではとことん実証を進めるべきですよ。たとえば南京大虐殺の犠牲者が三〇万人だという話が誇張だという意見は一概に否定できないので、できれば日中共同で可能なかぎりデータの収集・吟味・検証を進めるべきです。
 (以上,特別鼎談:浅田彰+東浩紀+千葉雅也「ポスト・トゥルース時代の現代思想」より)
新潮 2017年 08 月号 [雑誌]/新潮社

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 「真理」を振りかざして多様性の中からたった一つの解釈だけを押しつける近代合理主義は権力の営み以外の何物でもないと批判するポストモダンの運動の成果として,もはやトゥルース(真実)などどこにもなくなってしまった。そこでは,直観に訴えて人気を獲得する右派ポピュリズムが台頭し,「ウソはバレなければいい」といった堕落した規範が定着するのは必然であろう。古い唯物論と言われようとも私は,このポスト・トゥルース的状況に対しては,理性をもって実証を徹底してやっていくしかないと思っている。そうしないと,いずれ権力に取り込まれる。

 その点に関して,掲題の「〈真実なき時代〉に対抗する一冊」として,例えば橘玲さんは,理性(スロー思考)によって直観(ファスト思考)を制御し「正気を取り戻す」ことはできるとするジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』(NTT出版)を挙げ,また西田亮介さんは,知識を獲得するための能力である知性こそが民主主義社会の基礎であると説く『ラッセル教育論』(岩波文庫)を挙げている。前者は未読だが,後者は以前必要があって少し目を通したことがある。いずれも「ポスト・トゥルース」に対抗するのに相応しい一冊のような気がする。

 その他,加藤典洋さんがエマニュエル・トッド『シャルリとは誰か?』
平野啓一郎さんがレジス・ドブレ『メディオロジー宣言』
大澤真幸さんがコリン・J・ハンフリーズ『最後の晩餐の真実』
田中慎弥さんが自著『美しい国への旅』
を挙げていたが,それぞれの推薦文を読む限り,どれもいま一つ興味を覚えなかった。

 掲題の特集記事の中で異色だったのが,辺見庸さんが選んだ目取真俊の掌編「希望」(目取真俊短篇小説選集『面影と連れて』に所収)である。それを見て私は思わず膝を打った。この小説については,前にこのブログでもレビューしたが,確かにこれこそ「ポスト・トゥルース」に対抗する最大の武器ではないか,と。さすが辺見さん,目の付け所が違う。

 「今オキナワに必要なのは数千人のデモでも数万人の集会でもなく,たった一人のアメリカ人の幼児の死だ」という暗喩を込めたこの掌編小説を,どう咀嚼すればいいか。「最低の方法だけが有効なのだ」と吐き捨てる犯人の置かれた状況とは,いかなるものなのか。目取真さんはこの掌編で,90年代沖縄を舞台にしながらも,(自覚のない)欺瞞と(非暴力的な装いの)暴力が公然とまかり通る「ポスト・トゥルース」の時代を先取りし逆照射して見せた。

 すなわち,「ウソをついてもバレなければいい」とか「非暴力を装えば暴力をふるっても構わない」といった政治権力の堕落した倫理や規範を逆手にとり,「最低の方法」であると真っ当に認識した暴力そのものをもって,日本社会の根源に潜むのっぴきならない〈欺瞞と暴力〉を暴いて見せたのである。だから,このメタファーとしての犯人は,必ずしも感情や信仰に偏ったテロリストではなく,すぐれて理性的なアナキストである。そして,その行動や思考様式には人間身体が不可分なものとして入り込んでいる。そもそもアナキズムは,「無政府主義」というよりは「自由人連合」と訳した方が相応しい。すなわち,アナキズムは全体や組織よりも個や人間を大切にし,その個人相互の哀歓をともにした自由な交流が社会を支える。そこで湧き上がる真理への飽くなき追究,さらに社会の欺瞞や不合理を絶えず清算する努力が,私の考えるアナキズムの精神である。

 そういった意味で,この小説の犯人に象徴される自由人は,「ポスト・トゥルース」時代の欺瞞の本質をとらえる上で不可欠の瞠目すべき存在なのである。「真実なき時代」には,このような自由人的・アナキスト的な精神と身体をもって闘っていくしかないであろう...。

 ところで,辺見さんがこの自由人を代弁するかのように,「真実なき時代」の世相を嘲っているのが愉快である。

 リッケンミンシュシュギか。センキョか。笑わせる。派手なゴロツキどもが議場という名の賭場で遊んでいるだけだろうが。・・・ポスト・トゥルースだって?だからどうしたというんだ。えっ,真実なき時代だと?いつ「真実の時代」があったんだい。ポスト・トゥルースなんて,いまさら気どるなよ。
 (「〈真実なき時代〉に対抗する一冊」より)
文學界2017年7月号/文藝春秋

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面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ) (目取真俊短篇小説選集3)/影書房

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