「国旗・国歌を教化する東京都の五輪教育」(『紙の爆弾』8月号) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 前回記事で書いたように,国旗国歌法ができたのは野中さんが内閣官房長官だった1999年のことで,野中さんがいなかったら成立しなかったであろう代物である。その間の事情は前回書いたが,それにしても国旗国歌法を作ったという点で野中さんの罪過は極めて大きいと私は思っている。それが今の戦前回帰,右傾化,9条改悪の流れの起点になったとも言えるからだ。野中さん自身,そのことについて後年,次のように反省の弁を述べている

 「自分が小渕政権で官房長官やっている時に,国旗国歌法案を触発的にやったんですよ。やったけどもね,そのあと自分振り返ってみたら,その勢いのまま,住民基本台帳とか,周辺事態法とか,もう怖い怖いのがどんどんどんどん出来たのを,自分で非常に反省してます」(野中広務・辛淑玉『差別と日本人』角川oneテーマ21,p.125)

 90年代初めから,文部省の通達により教育現場では「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱が事実上「義務」づけられたが,そのために思想信条の自由をめぐって現場では対立や混乱が続発した。そういう中で国旗国歌法は成立した。その結果,「日の丸・君が代」の強制は加速・拡散し,教育の混乱に拍車がかかった。さらには東京オリンピックの決定をテコにして,上意下達式の一方的な押しつけが進む。それが一番甚だしいのが東京都であることは言うまでもない。

 掲題の記事によれば,東京都教育委員会は約1億7千万円をかけて,都の全公立学校に『オリンピック・パラリンピック学習読本』や映像教材などを配布し,年間35時間程度の「五輪教育」を実質的に義務化した。都教委は,その五輪教育で「日本人の自覚と誇り」を持てるような教育を推奨し,また「国旗・国歌への敬意」を殊更に強調してもいる。これは,森友学園のような国家主義や愛国心の注入を意図した教育ではないか,と誰もが訝るであろう内容である。

 例えば,『オリンピック・パラリンピック学習読本』では,「1位の国の…国歌が演奏されるときには,敬意を表し,起立して脱帽する」などと記述されているという。

 明らかに,これはオリンピック憲章に違反した記述である。そもそもオリンピック憲章では,国旗・国歌を用いるのはオリンピックの理念に反するとして,「選手団の旗と歌(曲)を用いる」と定めている。これはナショナリズムの激しい高揚が悲惨な戦争を招いたことの反省に立った原則規定である。先の大戦でアジア諸国に夥しい損害を与え,また「日の丸・君が代」が軍国主義の象徴であった日本は,とりわけこの五輪憲章の規定を遵守する立場にあるのではないか。「日の丸」が,ナチスドイツの国旗ハーケンクロイツと同じ役割を担った負の歴史を,ちゃんと直視すべきなのである。

 また五輪憲章には,「オリンピック競技大会は,個人種目または団体種目での選手間の競争であり,国家間の競争ではない」という文言もあって,行き過ぎたナショナリズムに歯止めをかけている。日本は,その精神を何より大切にしてオリンピックに臨むべきではないか。(といっても,私は東京オリンピック開催に賛成する者ではありません。直ちに撤回すべきだと思っています。)

 都教委は,「国旗・国歌を使用する」と書かれたIOCの『開催都市契約大会運営要件』なる文書を根拠として,国旗・国歌を用いることの正当性を主張しているが,都教委によるこの文書の日本語訳が,随分と眉唾物のようだ。誤訳というか,恣意的に「国旗」「国歌」と意訳している箇所が多いらしい。

 「national flag」や「national anthem」が必ずしも独立国家の旗や歌を指すとは限らず,よって,その全てを「国旗」「国家」と訳すのは間違っている。原文では,非独立国や地域の選手団の旗や歌を「national flag」や「national anthem」と表していることが少なからずあるからだ。「nation」が「国家」のほかに「民族や文化の共同体」などの意味があることは誰でも知っていることだろう。また,選手団の旗や歌を指す「thel flag」や「the anthem」も,ほとんどが「国旗」「国歌」と訳されているという。これはもう誤訳というレベルではなくて,残念ながらセンスの問題かなとも思った。都の職員さんはすでに国家主義的な思考回路に侵されているとしか思えない。例えば,去年のリオ・オリンピックで結成された「難民五輪選手団」が東京オリンピックにも参加するとして,その旗や歌も「国旗」「国歌」と訳すのだろうか。そのいかれたセンスは救いようがない。「the NOC flag-bearer」は,「国旗の旗手」などとは訳さず,「NOC(国内オリンピック委員会)旗の旗手」と訳すべきなのである。

 確かに実際には,開会式や閉会式で開催国の国旗掲揚や国歌演奏は行われているが,IOCの先の文書では,「愛国的ではあるが,オリンピック組織委員会はこの瞬間を政治的に利用せず,また国旗の敬虔な掲揚以上のものとせず,ステージが注目されるべきである」と明記し,オリンピックの政治利用や国旗・国歌によるナショナリズム発揚に釘を刺している。

 9.11以降,愛国主義が吹き荒れ,米国中心主義のトランプ大統領を生んだアメリカでさえ,教育現場では国歌を演奏するときに「歌いたくない人は歌わなくていいのです」と前置きされる。これと比較しても,東京都の教育がどれだけ時代錯誤で,危ない種子を播いているかがわかる。

 オリンピックで国旗や国歌を使う必要も義務もないのに,それがあたかもオリンピック精神であり五輪憲章であるかのような指導教育は明らかに間違いであり,そのようにオリンピックを国家主義や愛国主義に利用するのは教育上,著しい偏向をもたらすからやめるべきだ。オリンピックの旗や歌は,選手団が作ればいい。それが本来のオリンピック精神に適うものだ。それができないなら,オリンピックなどやめた方がいい。

 都民も国民も,「都民ファースト」とか「国民ファースト」など排外的・ファシズム的なスローガンに煽られることなく,国家が個人の内面にまで踏み込んでくることへの気持ち悪さや反発を共有すべきだと思う。国歌といっても所詮は一つの歌にすぎず,どの歌を歌い,どの歌を歌わないかは,個人の主観・好みの問題であろう。そういう当たり前の感覚や良識が学校という教育現場で通用しなくなっているのは本当に恐ろしいことだ。森友学園での「教育勅語」暗誦は実は他人事ではなかったのである。それは森友学園だけの問題ではなく,東京都の問題でもあり,いずれは日本全国の学校を覆う国家主義的教育(国民精神総動員運動)の前触れなのかもしれない...。


 『東京オリンピック・パラリンピック教育実施方針』の…「日本人としての自覚と誇りを持てるような教育を進める」という文言は,外国籍の子どもへの配慮を欠く排外的・差別的表現であり,ナショナリズムの教化だ。

 「(国家権力が)思想・良心・信教・表現の自由を侵してはならない」と規定した日本国憲法第一九条・二〇条・二一条を遵守し,"愛国心"教化等,・・・国家主義的な内容に踏み込むことは絶対にやめ,純粋な意味での郷土理解教育や伝統文化教育に留めるべきだ。
(以上,『紙の爆弾』8月号p.49)



日の丸・君が代法制化の報に接して
君が代を齧(かじ)り尽せよ夜盗虫

愛国を強ふる教えの寒さかな
(大道寺将司句集『棺一基』より)



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