辺見庸「私たちは『テロ』を知らない~大道寺将司死去に寄せて~」 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 辺見庸さんが大道寺将司死去を受けて書いたエッセイ(『中国新聞』掲載)をようやく読むことができた。辺見さんのブログによると,共同通信配信のこの原稿を掲載する新聞がほとんどないのだという。ある意味でこのことに日本の言論の現状が表れているだろう。リベラルや左派も含めて,日本の言論・出版は挙って大道寺の死に向き合おうとしない。辺見さんはこの現状を「内面の沈滞」と呼んで危機感を示しているが,その思いに共感する。

 辺見さんはブログで大道寺の句集刊行の裏話も書かれていた。すなわち,表向きはリベラルや左派を掲げる出版社も,「あれだけの犯罪を犯した人間だから」という理由で,句集の刊行を拒んだのだという。刊行拒否を「他者のせい」にし,自らは闘おうとしない出版社の姿勢に,辺見さんは今も怒りを押さえられないようだった。

 市民の味方として「共謀罪」に反対の外見ポーズを取りながら,実際には権力の言いなりにそれを受け入れてしまうような,出版社のひ弱な体質は今も変わっていないだろう。だから大道寺の死に言及できない。いずれ日本の言論・出版界は,権力に屈従する者たちの「しゃべり場」と化すのではないか。辺見さんはその危うさを「内面の沈滞」と言い表したのである。というか,さらに進んでもはや「内面の腐敗」というべき状況かもしれない。

 2002年の大道寺の句に下のものがある。

いつはりの言の葉かろし枯尾花

 まさに私たちが発している言葉は「いつはりの言の葉」でしかない。「枯尾花」(枯れたススキの穂)のように軽くどこかに飛んでゆき,行方不明となる無主物。そんな言葉しか出てこないのは,内面が状況に埋没し沈滞し腐食しているからにほかならない。いみじくも辺見さんはこのエッセイで書いている。

 全民的な精神の死」のかたちが,社会の全域に,どんよりとくぐもっていはしないだろうか。言葉は口からはっする以前に複雑骨折していないか。

 まさに今,私たちは「全民的な精神の死」とでも言うべき内面の危機に立ち会っている。人の内面は国家権力の規制より前に屹然としてあることを,大道寺の生と死は示してくれた。その大道寺を思想的に抹消することは,国家権力への隷従すなわち「全民的な精神の死」を意味するであろう...


身のなかの修羅育ちゐる冬の暮れ
ひとりゆく枯野の果ての入日影
(大道寺将司全句集『棺一基』より)