原田正純『水俣病』(岩波新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 現在の放射能汚染や内部被曝の問題を考える場合,私たちが忘れてはいけないと思うのは水俣病の記憶と教訓である。掲題の筆者・原田正純さんは,水俣病の治療と運動に初期の頃から献身的に取り組んだ医師として有名である。本書は,おそらく原田さんの水俣病に関する最初の著作で,原田さんが一人の医者として水俣病とどう関わってきたかが綴られているが,これを読めば,1970年ごろまでの水俣病の歴史や実態が大体つかめると思う。その後,現在までに水俣病に関する書籍は数多出ているけれども,本書は,筆者が水俣病の原因追究や実態解明のために奮闘し,また企業・国家や世間の偏見とも闘って「水俣病」を世に認めさせていく過程が,まだホットな現実感をもって語られている。だから水俣病とは何かを,原点に立ち返って知るには最も相応しい本ではないか。本書は,岩波新書の歴史の中でも名著に属するだろうし,また戦後史を考える上でも欠かせない一冊であろう。

 また原田さんは,水俣病の教訓を将来に生かす「水俣学」を唱えたことでも知られる。本書が出たのは1972年だが,この本ですでに原田さんは,水俣病事件を終わりにするという考えは放棄し,「終わりなき問い」として考えていかねばならないことを説いている。すなわち,水俣病は将来も場所を変え形を変えて起こりうる事件なのだ,と。

 水俣病の中に存在するどす黒い病根は,現代の社会の中で第三,第四の水俣病をひきおこそうとして大きく口を開いて私たちを待っているのである。(原田正純『水俣病』p.240)


 私が,低線量被曝や内部被曝との関連で目を引かれたのは,水銀の長期微量汚染による慢性中毒の問題を指摘していた箇所である。その慢性中毒は,これまで知られている大量の水銀摂取による急性中毒とは様相が異なり,一般的な高血圧とか肝障害などの形をとることが予想される。だが,そうなると水銀との因果関係が不明となり,水俣病という診断がつきにくい。疫学,臨床研究が重要になるゆえんである。

 さらに考えねばならないのは,大量の水銀で汚染された場合は汚染された本人に激しい中毒の症状が出現するだろうが,それよりも少ない水銀で汚染された場合,本人にはそのような激しい症状をみないで次の世代に影響を及ぼすだろうということである。すなわち,不妊,流産,ついで現在みられている胎児性水俣病のような重篤な先天性脳障害が生まれるであろう。しかし,さらに微量な場合は粗大な身体症状がみられず,一般の精神薄弱と鑑別診断が困難なような例が生まれるだろう。これは,水銀だけの問題でないから,人類は徐々に知的機能のレベル低下をきたすであろう。(本書p.237~p.238)

 ここで,水銀の許容量という問題が出てくる。原田さんは本書で,当時の水銀の許容量基準が,水俣で起こった急性・重症な中毒を基準に決められていることに対して再検討すべきと警告している。本来であれば,例外的に食べる人や極端に虚弱な人に基準に置くべきだし,次の世代(胎児)への影響などを考えれば,許容量を決めるのに慎重になりすぎるということはない。多くの人々に適用し,先の世代のことを考慮するならば,許容基準値はできる限り厳しく,少なく設定すべきだ,と。

 以上のことは,そのまま低線量放射線の長期的影響についても言えるのではなかろうか。健康や環境への影響を考えるなら,放射能は浴びないに越したことはないし,もし浴びるにしても必要最低限に抑えるべきである。いかにも尤もらしい根拠に基づいて一定のしきい値を設け,それ以下なら安心だと印象操作するのは,詐欺商法と同じだろう。住民の健康や将来のことを全く考慮しない,行政側の都合のいい解釈である。現在の科学の水準で分かっていることは分かっているとして明確な根拠を示し,分かっていないことは分かっていないとするのが,科学的な態度・良心ではないか。分かっている範囲で最善の策を取るのが,科学技術政策の本来のあり方だと思うのである。今の放射能汚染に対する国の姿勢は,全く恣意的な人治国家のやり方である。

 本書によれば,人類は自然界に存在する毒物に対しては防御機能を獲得してきたが,人工的に作られた有機物に対しては全く無防備である。

 たとえば,無機水銀が脳内や胎児にきわめて移行しにくいのに,メチル水銀がよく侵入するのはその顕著な例である。そのことがメチル水銀中毒をきわめて深刻なものにした原因である。したがって,胎児性水俣病の母親が「この子がおなかの中で私の水銀を全部吸いとってしまってくれたので,私はおかげでまあなんとか元気です」といった言葉は事実なのだ。・・・戦慄を覚える語である。母体が胎児を分娩することによって体内の毒物を排泄しているとは,まったく生物の種族保存の法則にさからっている。近代科学の発達の結末は,生きとし生けるものの何万年かの生物の法則にさからっているのである。(本書p.238)


 とすれば,放射能汚染に関しても当然,自然放射性物質と人工放射性物質とを区別する必要がある。人類は何百万年の進化の過程で,自然界放射線を出す物質を体内で認知し,体外に排出するメカニズムを獲得してきたけれども,人工の放射性物質はたかだか60~70年前に突如現れた,人体にとって未知の物質である。しかも自然界のミネラルや金属とよく似ているから,間違えて体内に取り込み,特定の器官に濃縮してしまう。だが,国策に従う御用学者さんはそんな重大な差異さえ気にならないらしい。天然にも一定量の放射線があるから微量の人工放射線は浴びても大丈夫,といういい加減な理屈で安全を押し付けるのである。

 現在福島で進められている避難指示区域解除や帰還強制を見ると,水俣病の教訓が全く生きていないと感じる。私たちももう一度水俣病に還って,公害や環境破壊,健康被害について根本から考え直すことが必要なのではないかと思うのである。

 実は本書は放射能汚染にも言及していて,水俣病だけでなく広く公害病や環境汚染について示唆に富む考察になっている。いま読んでも充分に新しい。

 水俣病は人類が経験した環境汚染としては史上最初にして最大級のものであるが,放射能汚染もまた,汚染のメカニズム,規模においては異なるが,人類が初めて経験した巨大な環境汚染といっていい。したがって今後,被爆者や汚染された住民がどのような経過をたどるのか,不明であることは両者とも同じである。(本書p.236)


 本書の最後のⅩ章は「水俣病は終わっていない」というタイトルである。この題名には筆者の思いが二重に込められているように思う。一つは文字通りの意味で,今も水俣病で苦しんでいる人がおり,また将来の世代にも水俣病が起こる可能性があるということ。もう一つは,それは将来,姿を変え,場所を変え,いろいろな形をとって起こりうるということ。つまり,「水俣病」は水俣地方で起こった固有事件の名前であると同時に,将来どこにでも起こりうる公害事件や健康破壊を表す普通名詞でもあるのだ。私は3.11の原発事故以降,日本全体が水俣になったといってよいのではないかと考えている。「水俣病は終わっていない」という筆者の叫びが今,一層切実に聞こえる...。

 私は,水俣病を語ることによって,多くの人々がそれぞれ自分たちのまわりにおこっているさまざまの健康破壊の実態をよりよく知り,いま何をなすべきかを考える,一つのささやかな資料になればと願っている。(本書p.239~p.240)

 本書は水俣病と現代をつなぐ記憶と教訓の書。今こそ多くの人に読んでほしい一冊。



水俣病 (岩波新書 青版 B-113)/原田 正純

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